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王子~生駒古社・寺探訪(05.11.24)⑦千光寺(元山上)・・・

■千光寺 
683年(天武天皇の御宇、白鳳12年)天皇随喜渇仰し鎮護国家寶柞長久のため伽藍を建立し、号を「千光寺」と称して寺領五百石を下し賜う。
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(小角(おずぬ)と大蛇(千光寺)大和の民話・伝承)ーより
今より千三百年前のこと、葛城山のふもとの茅原の里に役の小角(えんのおづぬ)という行者がいて、幼時から山中を駆け巡り、呪文を唱えて修行していました。
●千光寺総門                    ●山門
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青年になったある日、小角は平群の里で清らかにすんだ小川を見つけました。この水はどこから来るのだろうかと、小角は川の流れに逆らって山中へ入ると、ごうごう音を立てて落ちる滝に出ました。あまりの大滝に目を凝らして見ていると、滝壷で何か動く物が。大蛇でした。小角は右手に錫杖(しゃくじょう)左に念珠を持って孔雀明王の真言を称えて退治しました。すると白髪の老人が現れ、小角に頭を下げて、「この地は仏のすむ霊地だから、ここで修行なさるように」と、告げ消え去りました。老人の立っていた後には八尺の地蔵尊が残されていました。
●中門                               ●観音堂
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●  地蔵          ●十三重の石塔        ●大師堂
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小角はここ鳴川の地で十年間修行し、千光寺を建立。その後、吉野の奥の大峰山山上ヶ岳に登り、修行道場を建てました。小角が、大峰山上のもとにいたところなので、千光寺を元山上と呼びます。
●行者堂
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今も千光寺の行者堂には、この時の大蛇の骨がまつられています。小角が打ち振るったという錫杖も保存されています。小角にはいつも前鬼、後鬼という二匹の鬼がかしづいていました。これは人に害する荒神だったのを、小角が偉大な力を用いて弟子にした者ですが、この鬼達が使っていた斧も千光寺には残っています。
by barakan1 | 2005-11-30 18:59 | 旅日記

王子~生駒古社・寺探訪(05.11.24)⑥清滝石仏群・・・

a0016431_13471930.jpg■二本松と地蔵
そのそばをなおもダラダラと登って行くと檪原川(いちはらがわ)沿いに天空を渡る陸橋が見え、次に廃屋が現われ、清滝の谷に入ってゆきます。


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■清滝石仏群
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八尺地蔵の伝承
ある日、小角は平群の里で清らかにすんだ小川を見つけました。この水はどこから来るのだろうかと、小角は川の流れに逆らって山中へ入ると、ごうごう音を立てて落ちる滝に出ました。あまりの大滝に目を凝らして見ていると、滝壷で何か動く物が。大蛇でした。小角は右手に錫杖(しゃくじょう)左に念珠を持って孔雀明王の真言を称えて退治しました。すると白髪の老人が現れ、小角に頭を下げて、「この地は仏のすむ霊地だから、ここで修行なさるように」と、告げ消え去りました。老人の立っていた後には八尺の地蔵尊が残されていました。
●八尺地蔵                    ●五智如来
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●貝吹き地蔵           ●はらみ地蔵         ●ほら吹き地蔵
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揺るぎ地蔵は地蔵堂の本尊で、高さ2.0m、幅68cm、厚さ40cm、仏身154cmの地蔵立像で頭上に幅92cmの笠石を乗せる。高肉彫で円形の頭光があり、右手に錫杖、左手に玉を持ち、左側面に銘文があり「弘安二二(四)年辛巳五月日 願主快尊」とある。紀年銘から元寇(げんこう)(文禄・弘安の役)の二度目(1281)に際して国家的危機を回避するために立てられた尊像と考えられる。その後、造立の意味が忘れられ、信心すると病気などの痛みが揺るぐ(消える)との身近な信仰が生まれ、今日の呼び名となっている。
●鳴川民家                              ●ユルギ地蔵
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by barakan1 | 2005-11-29 14:34 | 旅日記

王子~生駒古社・寺探訪(05.11.24)⑤伊古麻山口神社・・・

■伊古麻山口神社(いこまやまぐち) 滝の宮 式内大社
●伊古麻山口神社社叢
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奈良県生駒郡平群町大字櫟原字滝の宮5-1
祭神
素戔嗚尊、櫛稲田姫命
摂社
大神社「天照大神」、猿田彦神社、八幡神社、厳島神社、稲荷神社
●伊古麻山口神社正面鳥居・参道
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由緒
滝の宮さんと呼ばれていた。古くは現在地の南西の杜と云う所の滝の側に鎮座していたと云う。雨乞いの神として崇敬されていた。
●拝殿
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●本殿
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龍田川(平群川)の水源の生駒山の山口に鎮座、神社前の宮川にかかる神前橋の上手に陰石と禊ぎ場がある。
●神前橋               ●陰石・禊場
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奈良盆地南部の分水嶺にある水分神社と、飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無などの山口神社は元々民衆の神であったが、豊作は水神を祀る天皇の徳と呪力によってもたされるとの思想から国家的な神に組織されていったと『日本の神々』では指摘している。 延喜式神名帳では平群郡の大社で月次・新嘗の奉幣に預かっている。 ー大和の神々ーより
●神前橋と首なし地蔵
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※神社の色が変わっています。大概は朱色が主ですが、ここはピンクなんです。なんともはや驚きました。年月が経ち色が褪せればそうでものいのでしょうが・・・。でも甘南備山にピッタリ張り付いてまとまったいい神社です。千光寺には鳥居前の神前橋を渡って行きます・・・・。
by barakan1 | 2005-11-28 17:53 | 旅日記

王子~生駒古社・寺探訪(05.11.24)④千光寺への道・・・

①元山上口駅石碑        ②駅付近竜田川       ③鳴川沿い畑
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④生駒山口神社          ⑤神前橋           ⑥首切り地蔵
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⑦二本松への道          ⑧道標             ⑨二本松
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⑩丘陵と民家            ⑪清滝への道         ⑫頭上の大橋
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⑬清滝への道            ⑭廃屋と紅葉         ⑮廃屋と紅葉
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⑯滝見橋               ⑰清滝あたり         ⑱清滝地蔵
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⑲千光寺案内板           ⑳懐かしい民家       21ゆるぎ地蔵案内板
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22ゆるぎ地蔵            23千光寺山門        24千光寺
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※檪原川沿いにあまりきつくない勾配の道を駅よりダラダラと1時間半くらい掛けて上りました。生駒山の裏側というか、奈良県側がこんなにも素朴な所??、田舎田舎して居るとは思いませんでした。何十年も昔の気持を味わえました。
by barakan1 | 2005-11-27 12:15 | 旅日記

王子~生駒古社・寺探訪(05.11.24)③船戸神社・・・

a0016431_14513455.jpg■船戸神社(西安寺旧跡)
久度神社より大和川沿いに東南に歩くと30分ばかりで、船戸神社に到る。

案内板よりー
大和川と葛下川に挟まれた地帯にあるこの神社は衝立船戸神とも呼ばれ、伊射奈伎神が投げ捨てた杖から化生した神と言われています。
●船戸神社全景(東→西) 左奥の山は孝霊天皇陵
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●船戸神社正面(北→南)
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この神はものを衝立のように、ここから入れないようにする所に祀られる神様だそうです。久那戸神(道祖神として大和川を往来する人の安全を祈願しています)、春日神を祭り春日神社とも呼ばれていたそうです。
●鳥居と拝殿
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●拝殿内絵馬
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本殿は春日造りの一間社で、拝殿には明治時代の絵馬が数多く掲げられています。
●本殿
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またこの地は古く聖徳太子建立の四十六ヶ寺のひとつである「西安寺」の旧跡としても学問的にも注目され、付近から礎石など多くの遺物も発見されたいます。
●境内から新池(南→北)             ●新池越しに灯篭・鳥居(北→南)
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●北東側→神社                   ●東→西 
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※西安寺旧跡というが、その痕跡は何処にも見当たりません。完全に破壊されています。以前の調査によると、拝殿に向って左側(仏様を祭ってあった所)あたりが塔跡、そしていまは畑になっている東側の広い場所が講堂あとだったらしいが・・・。町役場には礎石の一部があるそうですが・・、どうなんでしょう!?
by barakan1 | 2005-11-26 15:20 | 旅日記

王子~生駒古社・寺探訪(05.11.24)②久度神社・・・

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●王子の町は歴史もあるので、特に神社近くの道は細くて入り組んでいます。(神社の背面・西側?は大和川が流れています)。要するに川を背にしてドン突きにあります。その割りに参道は結構長く、社叢も立派で、神社の構えとしては全体がまとまって見えます。最近建替えられたので朱に映えて美しい神社です。
■久度神社 (延喜式内社の久度神社に当てられる)
住  所:奈良県北葛城郡王寺寺町久度四丁目
御祭神:久度大神(竈の神・火の元の神)   住吉大神(水運・交通の神)    
     八幡大神(寿命・幸運の神)      春日大神(子孫繁栄の神)
●神社裏大和川堤防より明治橋方向を見る
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●神社裏大和川堤防より近鉄線、多聞橋方向を見る(左端は神社社叢)
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説 明:栞によりますと
「久度神社は昔よりその名京畿地方に隠れもなき古社でありまして、その創祀の年代は古く奈良朝以前にかかり、歴代皇室の崇敬篤く、殊に第五十代桓武天皇の延暦二年には特に官社に列せられ、従五位下という神位を賜りましたことが、続日本紀という、当時朝廷で選ばれたわが国の正史に載っています。その後毎年朝廷より幣帛を捧げられ、ご祭祀に預かっていましたが延暦十三年都を奈良から京都にお遷しになるについて久度の神をはじめその外平素からご信仰の篤かった二、三の神々を皇居の近くに遷されて新たに平野神社を建てられました。これ実に今から一千百八十年の昔であります。
●神社正面(左)、右は脇参道
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これが京都の元官幣大社平野神社であり、その第二座の祭神が久度の神であります。
平野神社は京都守護の神として、ますます皇室の尊崇を集められ久度の神の神位も次第に高められて、白河天皇の永保元年には正一位に進められたのであります。このようにして京都に遷られた久度の神は皇居に近く、ますます上下の尊信を得て栄えましたが、一方、大和に残存の当久度神社は、何分京都より離れた地のために朝廷直接のご崇敬は暫らく遠ざかりましたが、なそ厳然と名高い古社として民間遠近の尊信は絶えませんでした。平安朝の初めに日本国中の神社を調査された延喜式神名帳の中にもその名が記されています。
●神社正面、拝殿
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その後約一千年の間、時により多少の興廃はありましたが、昭和十七年橿原神宮の古殿をもって拝殿・瑞垣・斎館・中門などの造営により面目を一新し、また昭和四十三年四月十日には京都平野神社からはるばる久度の神をお迎えし、丁度一年後の昭和四十四年四月十日には本殿完工奉祝の行事を盛大に執り行い基のみ座である久度神社の本殿にお祀りできましたことは、この古い由緒とともに郷土の誇りであると申さねばなりません。
●神社本殿
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久度大神の「久度」は、「窖」の意味であり、御厨の神の総称であります。いわゆる竈神として人間の生命をつなぐに一日も欠くことのできない食べ物の神、火の元の神として人間生命の本源を宰り給うのであります。久度神社に合わせ祀る八幡大神・住吉大神・春日大神は、久度大神とともにそれぞれ広大な御神威をもってこの地の守護の神として鎮まり給うのであります」とあります。
by barakan1 | 2005-11-25 19:22 | 旅日記

王子~生駒探訪(05.11.24)①コース概要

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●近鉄生駒線元山上駅近くの竜田川の紅葉


■JR王子駅9時半~久度神社~船戸神社~元山上口駅~生駒山口神社~清滝石仏群~千光寺~鳴川峠~神津嶽(枚岡神社)~枚岡神社~枚岡駅16時半~寺田町17時半。
千光寺から引き返す予定が鳴川峠を越えた、山越えになってしまった。流石にヘロヘロだ。
by barakan1 | 2005-11-24 20:58 | 旅日記

吉野町(国栖他)~川上村(不動窟他)探訪(05.11.09)おまけ・斎明天皇越智岡上陵・・・終章

a0016431_1544216.jpg●吉野・川上村探訪の途中、越智車木の斎明天皇陵に寄りました。以前の探訪で抜けていたものですから、やっと訪ねることが出来ました。が、行程上7時半の到着となり、まだ、完全に陽が登っていず寒さに震えました。陵への階段は長く・キツイものでした。其れにもまして朝の寒さと薄暗さに震えながらも神聖な畏れを感じました。

■斎明天皇越智岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)
斎明天皇越智岡上陵は、高取町大字車木(くるまき)の民家のうしろにある丘陵の山頂にあります。舒明天皇の皇后であり、天智・天武天皇と孝徳天皇の皇后間人皇女の母です。大田皇女(ひめみこ)の弟で、八歳で亡くなった聾唖の建王と間人皇女(はしひと)も合葬されています。
●斎明天皇越智岡上陵(正面頂上あたりに陵あり)
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斎明天皇は、舒明天皇(じょめい)の皇后で夫君の崩御後、皇極天皇(こうぎょく)となり、645年大化改新とともに位を弟の軽皇子孝徳天皇に譲り、孝徳天皇崩御後には、重祚(ちょうそ)して斎明天皇となりました。
斎明天皇御歌
万葉集 巻1-0008
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
巻8-1511
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも
激動の時代にあたり、皇極天皇時代には、蘇我入鹿(いるか)が、眼前で殺され(大化の改新)、また斎明天皇時代には孝徳天皇の息子の有間皇子(ありま)が謀反の疑いで、謀殺されました。また、対外関係では百済への救援をすると共に、天皇自身も百済救援の兵を派遣するため九州筑前朝倉宮に出征されましたが、その地で急死されました。
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斎明天皇が八歳で亡くなった孫の建王(たけるのみこ)を偲んで越智岡を舞台に詠った歌。
日本書記 斎明天皇四年五月条
今城(いまき)なる小丘(おむれ)が上に雲だにも著(しる)くし立たば何か歎かむ
今城の小丘(越智の岡)の上に せめて雲だけでもはっきりと立ったなら どうしてこれほど嘆こうか
(日本書紀)
山越えて海渡るともおもしろき今城(いまき)の中(うち)は忘らゆましじ 
飛鳥から山を越え、海を渡って、紀の国へ出かけてゆく。道中の景色は目を楽しませてくれるだろうけれど、いま今城の殯宮の中にいるあの子ほど、私の心を晴らしてくれる存在はなかった。旅をしても、あの子のことは決して忘れられないだろう。
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また、中腹の茂みに大田皇女の墓があります。大田皇女は息子の天智天皇の娘で、後に天武天皇に嫁しました。
●太田皇女墓(大伯皇女・大津皇子の母)
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●右の石段を登ると斎明天皇越智岡上陵
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●越智岡
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越智といえば、草壁皇子(岡宮天皇陵)の陵も丁度この反対側(真弓の岡)にあります。越智丘陵は古墳が沢山有り、古代王族の墓場だったのですね!?。
越智が詠われた万葉歌柿本朝臣(あそみ)人麻呂が泊瀬部皇女(はつせべ)と忍坂部皇子(おさかべ)とに献(たてまつる)る歌一首 併(あは)せて短歌
巻2-0194
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生ふる玉藻は
下(しも)つ瀬に 流れ触(ふ)らふ 玉藻なす か寄りかく寄り
靡かひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを
剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床(よとこ)も荒るらむ
そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ほして
玉垂(たまたれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち
夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故
反歌一首
巻2-0195
しきたへの 袖交(そでか)へし君 玉垂れの 越智野過ぎ行く またも逢はめやも
右、或(ある)本に曰(いは)く、「河島皇子を越智野に葬(はぶ)る時に、泊瀬部皇女に献(たてまつ)る歌なり」といふ。
by barakan1 | 2005-11-18 15:55 | 旅日記

吉野町(国栖他)~川上村(不動窟他)探訪(05.11.09)⑧十二社神社(吉野郡樫尾)・・・

■十二社神社 大和国吉野郡   
奈良県吉野郡吉野町樫尾字下垣内
祭神:十二社大明神  国常立命、国狭土命、天照皇大神など十二柱神。
●正面鳥居(車の止めてある道を登ると川上鹿塩神へ)
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当社地には一時期、川上鹿塩神と大倉大明神が鎮座されていたが、前社は五社峠の地へ、後社は南国栖の深山へ遷座した。現在は両社とも、原社地で祭祀されていることになる。
この神社は、元禄~慶應年間は大倉大明神と称せられていたという。
●境内
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by barakan1 | 2005-11-17 16:25 | 旅日記

吉野町(国栖他)~川上村(不動窟他)探訪(05.11.09)⑦金剛寺・南帝自天皇陵・・・

a0016431_12582971.jpg■金剛寺
不動窟より169号線を吉野方面に戻り、大平橋を渡り、すぐT字路を右に道なりに進むと金剛寺という案内板が現れます。その先を少し下ると、高野山真言宗、妹背山「金剛寺」があります。本尊の「地蔵菩薩」は、役行者が造って大峯山からここまで投げたと伝えられる「投げ地蔵」です。
●金剛寺「ケヤキ」
お寺が造られた頃と前後して、自生した物と思われる大きな「ケヤキ」の巨樹が、境内へ上がる石段の脇に植わっています。推定樹齢800年、幹周り6.5m、幹高約30m。1457年(長禄元年)12月2日夜、自天王は、ここで襲われ、あえない最後を遂げたけど、村の者が必死になって後を追い、寺尾の集落で、弓の名人大西助五郎が敵将中村貞友を仕留めて、王の首と神璽(しんじ)を取り返し、今でも王の命日12月2日、当事の郷士らの子孫によって御朝拝式が行われます。ー奈良観光より抜粋ー
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■金剛寺(本堂)  
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●南北朝とは
今からおよそ650年のその昔、後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府(北条氏)の政治をきらい、これを打ち破りました。ところが、この時天皇を助けた足利尊氏が力をたくわえ、遂には天皇に反したため、天皇は吉野山に朝廷を移して政治を執りました。一方、足利幕府は別の天皇(北朝)をたてたため激しい争いとなり、世にいう南北朝時代の幕開けとなったのです。
その後、南朝の後亀山天皇の時代に話し合いが進み、ようやく南北朝が交代で天皇をたて京都で政治をとる約束ができました。この時、天皇系の象徴である三種の神器も北朝側に渡しました。ところが足利氏が約束を守らず政治は幕府の思いのままに動いていきました。
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こうした北朝側に対し、後亀山天皇の皇子・小倉宮は京都をはなれ、奥吉野・川上郷に住いを定められました。そして、南朝回復の願いは、その子天基親王と円満院宮らに引きつがれ、ついに京都へ攻め入り大きな犠牲をはらいながらも神璽を取りもどしました。
一方、さきに川上郷にうつっていた万寿寺宮(尊義王)は円満院宮から神璽をうけ、自天皇(尊秀王)と忠義王(河野宮)の二皇子をともない三之公に御所をかまえられました。
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その後、父・尊義王がなくなり、自天皇は上北山村に、弟の忠義王は神之谷にわかれ住み、南朝方忠臣や郷民に守られながら再起の機会をうかがっていました。ところが長禄元年12月2日(1457年)の夜、赤松家一家の謀略にあい、両方の御所がおそわれ、自天皇はあえない最後をとげられました。この時、まさに18歳の若さでありました。郷民は、深い悲しみにおおわれながらも王の御首をとりもどし、金剛寺の境域にほうむりました。
●自天親王神社
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一方弟宮・忠義王は高原までにげのび、ここで病気でなくなられたといい伝えられています。今も郷民の追慕かわらず、毎年2月5日朝拝式が行われ、500有余年の昔をしのんでいます。ー川上村「後南朝と川上村」ーより

■南帝自天皇陵
「金剛寺」は、後南朝菩提所としても知られており、「本堂」に向かって左の急な石段を上がった所に後亀山天皇玄孫の「南帝自天皇陵」があります。
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※南帝自天皇陵と河野宮墓
自天皇は上北山村(川上村の南)にある龍泉寺を行宮(あんぐう)とされていらっしゃり、長禄の変の際には、そこで襲撃されてしまわれました。自天皇の御首級は北朝の襲撃隊の手に渡りましたが、川上郷士はそれを奪回し、川上村金剛寺に埋葬しました。
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本堂の裏手には自天親王神社があります。また、本堂前には小松宮彰仁親王題額の「自天王碑」が1882(明治15)年に建てられています。一方、宮内庁は金剛寺境内にある御墓を自天皇の弟宮である「河野宮墓」として管轄しています。川上村の史料によれば、河野宮は川上村高原に祭られているということです。なぜこのような違いが生じてしまったのでしょうか。
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1993(平成5)年2月5日には例年のように朝拝式が執り行われましが、このとき「後亀山天皇玄孫 南帝自天皇陵」と刻まれた石碑の除幕式が行われました。宮内庁の「河野宮墓」という標識の前に、「自天皇陵」と刻まれた石碑が建つことになったのです。川上村筋目の方々の気持ちを表した石碑となっています。
ー『歴史と旅』 1994年1月号ー秋田書店
※自天王が殺されたのは北山村龍泉寺であるという文と、金剛寺であるというのがあり、混乱していますが、葬られたのはここ金剛寺にまちがいないようですね。それにしても、陵に石塔が2基あるというのはどういうことでしょう?・・・。自天王と忠義王という意味でしょうか!?。
このあたりにはマダマダ南朝にかかわる知られざる旧跡があるようです!!
by barakan1 | 2005-11-16 13:40 | 旅日記