<   2005年 10月 ( 27 )   > この月の画像一覧

山の辺の道(巻向編)探訪(05.10.27)⑤相撲神社~穴師座兵主神社~景行天皇陵・・・終

■相撲発祥の地「カタヤケシ」
「景行天皇向日代宮跡」から更に山の方へ辿って行くと、右側に「相撲神社」が在り、ここが今から二千年前垂仁天皇7年7月7日、野見宿彌(のみノすくね)と当麻蹶速(たいまノけはや)が我が国で最初の勅命天覧相撲を行った大兵主(だいひょうず)神社神域内小字カタヤケシで、勝負は野見宿彌が蹴りを入れて、当麻蹶速の肋骨をへし折って殺しました。出雲から来ていた野見宿彌は、その後奈良に留まり、長谷寺の近くに屋敷を賜って朝廷に仕え、生贄に代え埴輪を考案しました。ー奈良観光より抜粋ー
●鳥居                       ●境内土俵
a0016431_17561484.jpg

●神社の祠
a0016431_17585714.jpg

柿本人痲呂巻10-2314
巻向の檜原もいまだ雲居(くもいゐ)ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪(あわゆき)流る
■穴師坐兵主神社
「相撲神社」から山間部へ入ると、穴師山に「穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社」が鎮座し、創建は垂仁天皇2年で、祭神は御食津(みけつ)神です。
●神社入口                    ●オチャメな顔の狛犬  
a0016431_1811216.jpg

天孫降臨時の三鏡の一面を御神体とし、天皇の御膳の守護神、元は巻向山の山中にあった「上社」ですが、応仁の乱で焼け出され、現在地に元々あった「下社」の「穴師大兵主神社」に移って主客転倒し、江戸時代に柳本藩主の尊崇を集め、
●拝殿
a0016431_1855936.jpg

本殿前の小さな池のまえに、会津八一筆の万葉歌
巻7-1369 
天雲に近く光りて鳴る神の見れば畏(かしこ)し見ねば悲しも
明治7年に再建された三つ屋造の中央社に祀られ、また、左社に末社「大兵主神社」を祀り、末社の祭神は大兵主神で御神体が鉾で、武勇の神、右社にやはり合祀の末社「巻向坐若御魂神社」を祀り、合祀の末社の祭神は若御魂神です。ー奈良観光より抜粋ー
●本殿
a0016431_1863553.jpg

神社後方の山は穴師山と呼ばれる
巻12-3126 
纏向(まきむく)の痛足(あなし)の山に雲居つつ雨は降れども濡れつつそ来(こ)し

■珠城山古墳群(たまきやまこふんぐん)
前方後円墳3基からなる古墳群である。1.2号墳は当時の姿をとどめており、1号墳の後円部には横穴式石室が開口している。残念ながら3号墳の大部分は消滅してしまっているが、後円部と前方部に横穴式石室があった。 発掘調査を行なった1.3号墳からは金銅製の馬具や環頭太刀等が出土しており、出土品から6世紀代に築造されたと考えられている。また、2号墳の北側には平安時代の木棺墓、3号墳の前方部の石室からは火葬墓が見つかっており、古墳時代以後も葬地としてつかわれていた。(桜井市観光情報サイト)
a0016431_18161338.jpg


■景行天皇山邊道上(やまノべノみちノへ)陵。
大12代景行天皇陵の「渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳」は全長300m、前方部幅170m、後円部径168mで、周囲には濠を巡らし3段に構築され、前期古墳として全国で最大規模の古墳です。また、周辺に陪塚を幾つも持つ景行天皇陵は、崇神天皇陵等と共に「柳本古墳群」を形成し、造築時期は古墳時代中期と考えられている黒塚古墳を除き、殆どが古墳時代の前期と推定されています。
●景行天皇陵遠景
a0016431_18162545.jpg

なお、景行天皇は身長1丈2寸、脚の長さ4尺1寸の大男で、80人の御子がいて、日本武尊の父で、纏向の日代宮で天下を治められました。
a0016431_1817151.jpg


■景行天皇纏向日代宮跡&「垂仁天皇纏向珠城宮跡」伝承地
●景行天皇纏向日代宮跡(写真左)
相撲神社への道の脇に「景行天皇纏向日代宮跡(けいこうてんのうまきむくノひしろノみやあと)」の石碑が建っています。第12代景行天皇は、第11代垂仁天皇の第二皇子で母は比羽州比売命(ひばすひめノみこと)、そして、妃の伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)との間に五柱の皇子が有り、その内二皇子が双生児の大碓命(おおうすノみこと)と小碓命で、訳あって、兄の大碓命を殺した小碓命が倭建(やまとたける)命です。
a0016431_18194047.jpg

●「垂仁天皇纏向珠城宮跡」伝承地(写真右)
兵主神社から、「新池」に沿って西へ向うと、国道169号線の手前で、右(北)側の道端に「垂仁天皇纏向珠城宮跡」の石碑が「龍王山」を背にして建っています。この辺りが、「日本書紀」に「纏向(まきむく)に都し、珠城(たまき)の宮という」と書かれた第11代垂仁天皇の「纏向珠城宮跡」伝承地です。「帝王編年記」では、宮の位置を「今巻向河北里の西の田中也」としています。垂仁天皇は、第10代崇神天皇の第三皇子で、名を活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)と云い、母は御間城姫(みまきひめ)で、在位99年、諸国に池溝を開きました。ー奈良観光より抜粋ー
by barakan1 | 2005-10-31 18:30 | 旅日記

山の辺の道(巻向編)探訪(05.10.27)④国津神社~檜原神社・・・

■国津神社(くにつじんじゃ)
箸中(はしなか)集落の中央で、「巻向(まきむく)川」の北岸に「国津神社」が鎮座しています。祭神は国津神ですが、箸中では当社を「ウブスナ」と云い、宮座に右座と左座があり、三輪山麓の檜原神社を氏神と称し、毎年正月2日と15日「檜原神社」と「国津神社」で荘厳講が行われます。ー奈良観光より抜粋ー
●正面鳥居
a0016431_14475727.jpg

●拝殿                      ●本殿
a0016431_14484678.jpg


□檜原井寺池あたりから大和国中を見る
●畝傍山&耳成山
a0016431_14505396.jpg

●箸墓&二上山
a0016431_1452873.jpg

●弓月が岳(巻向山)
a0016431_1531217.jpg

柿本人痲呂 巻7-1269
あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る

■檜原神社(ひばらじんじゃ)
祭神
中殿 天照大御神
左殿 伊弉諾尊
右殿 伊弉册尊
摂社 豊鍬入姫命神社
檜原神社は大神神社の摂社群のうちでも最も社格が高く、「元伊勢伝承地」の1つに挙げられる古社でもあります。
a0016431_1544040.jpg

柿本人麻呂 巻7-1118
古にありけむ人も吾(あ)がごとか三輪の桧原(ひはら)に挿頭(かざし)折りけむ

元伊勢伝承とは、伊勢神宮に天照大神が鎮座する前、畿内各地の社を転々としていたという伝承で、こうした「伊勢神宮以前に天照大神が鎮座していた場所」を「元伊勢」と言います。檜原神社はその最初とされる元伊勢「倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」の比定地です。
●「三輪鳥居」
a0016431_1553910.jpg

巻7-1119 
ゆく川の過ぎにし人の手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は

檜原神社には大神神社と同様、本殿はなく三輪山が本殿であり、三輪独自の鳥居形態である「三輪鳥居」と、その奥にある神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の臨時の宿り場所。小さめの樹木や岩石が選ばれる)が祀り場として整えられています。三輪鳥居の奥にあるという神籬は石の群れで構築したものといわれており、磐座と同様のものと理解して良いと思われます。 三輪山信仰に関するページより
a0016431_159223.jpg

※元伊勢伝承
第10代崇神天皇の時代、国中で疫病が大流行しました。 その原因が天照大神を宮中で祀っていることに起因するという神託が下ったのでした。 それは大和神社の御祭神「倭大國魂神」と「天照大神」の不仲が原因だったとも言われます。そのため天皇の皇女・豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)が「御杖代(みつえしろ)」となって、天照大神の安住の鎮座地を求めて大和を旅発ったのです。 伊勢にたどりつくまでの、その変遷の地が「元伊勢」と呼ばれているのです。
●檜原神社より二上山を望む
a0016431_15165030.jpg

巻4-0497
いにしへにありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ 
※とても古くて、格式のある神社とは思えぬほど明るく、開放的な神社です。手入れもよくされていて気持ちがいいです。このあたりから山之辺の道のハイライトになる所ですのでハイカーも多く賑やかです。神秘、荘厳なのもいいですが、こんな明るいのも好きですね!!
by barakan1 | 2005-10-30 15:38 | 旅日記

山の辺の道(巻向編)探訪(05.10.27)③狐塚古墳~茅原大墓古墳~ホケノ山古墳・・・

■狐塚古墳
R桜井線の線路沿いにあり、畑の中に巨石が露出している。南向きに開口する両袖式横穴式石室を持つ、一辺40m程度の方墳と推定される。石室は、花崗岩の乱石積で玄室長6m、幅2.6m、高さ3.2m、羨道長11.3m、幅2.1m、高さ1.9m。玄室内には奥壁に沿って組合式家形石棺が残っている。他にも、計3つの石棺が安置されていた。また道部には木棺を安置したのか、鉄釘が検出されている。6世紀の終り頃から7世紀の初頭の築造と考えられる。参照:「WELCOME さくらい」ホームページ
●畑の真中にある狐塚古墳
a0016431_144889.jpg

●南向き石室開口部
a0016431_1449241.jpg

※盛り土も削られ、石室が剥き出しになり、何とか崩れ落ちずに保たれている1というような状態です。場所が分らず地元の人に2・3人に聞きましたがわからない?と・・・。4人目のおばあさんがやっと覚えていて、教えていただきました(それでも、狐塚という名前まではご存知ありませんでした。地元ではキッと違う名前で呼ばれているのでしょうね!!)

■茅原大墓古墳
桜井市茅原、三輪山西麓に築かれた全長66メートルの帆立貝式前方後円墳。箸中墳群中では箸墓古墳に次ぐ規模の古墳。墳丘表面には葺石や円筒埴輪片などが散在し墳丘周辺では周濠の痕跡が確認できる。築造年代は5世紀代と推定され、古墳時代中の墓制を考える上で貴重な古墳であるとされている。
a0016431_14551751.jpg

これは又はっきりと古墳だ!!という形を残しています。階段状になった石積みなどハッキリ確認できます。

■ホケノ山古墳  
箸墓古墳の東200mに位置し、纒向扇状地の南端にあたる小台地上に、前方部を南西面させる帆立貝式の前方後円墳である。全長90m、後円部径60m・高さ8.5m、前方部長30m・高さ3.5mを測る。墳丘上に円礫が散乱しているが、埴輪片はみられない。北及び北東側は、幅10mの水田が残っており、周濠の痕跡とみられる。大神神社にはホケノ山古墳出土と伝わる画文帯神獣鏡が保存されている。墳丘に埋置された土器は、新しくみても庄内式期であり、3世紀前半かそれ以前の最も古い古墳の1つである。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。(桜井の文化財 桜井市教育委員会、石野)Welcome さくらいより
●檜原井寺池より巻向・二上山方向を見る
a0016431_1561868.jpg

●ホケノ山古墳東より見る(先の古墳に較べると今はただの丘にみえます)
a0016431_151327.jpg

●ホケノ山古墳上より「山の辺の道」方向をみる
a0016431_1511227.jpg


□三輪山一景
柿本人痲呂 巻7-1087
痛足川(あなしがわ)川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居たつらし
a0016431_1518177.jpg

※檜原からの大和平野の展望は山の辺の道の中でも特にすぐれていると言われている。言い換えれば、檜原の平野側に当る巻向、国津神社あたりからの山之辺側の展望も良いという事になる。確かに、写真で見てもらえば分かると思うが、どのあたりから撮った写真よりも、ここ(国津・ホケノ)あたりから写した山の辺の写真が決まる。(柿本人痲呂はなるほどここらで一番景色のいいところに住んでいたんですねぇ!?) 花の季節はもっと綺麗だそうだ!!
by barakan1 | 2005-10-29 15:36

山の辺の道(巻向編)探訪(05.10.27)②箸墓古墳・・・

a0016431_16112127.jpg
●巻向駅は小さな無人駅である。

閑散と駅前から西側に行くと、点々と古墳らしい杜が散らばっており、その中でも南側に見える杜は壮大である。めざす箸墓である。

■倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちばか)
孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲姫が御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻となったとする、有名な神婚伝承を伝える。倭迹迹日百襲姫は箸で下腹部を突いて薨じ、大市に葬られたが、人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだとされている。
●山の辺の道をみる
a0016431_16152356.jpg

●巻向より南方向をみる
a0016431_16454862.jpg

崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となった、だがこの神は夜にばかり通ってきて姿を見せないので姫はまだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さいと願った、神は「明朝お前の櫛箱の中に入っていようと答えた。姫は朝のくるのを待って櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだすと神は人の姿に戻り「よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれた」といって三輪山に帰ってしまった、姫はたいへん後悔しそのはずみに箸で陰処(ほと)を突いて死んでしまった。そこで人々はその墓を箸の墓と呼んだ。
●箸墓北→南
a0016431_16174346.jpg

日本書紀に記載されている「壬申の乱」(天武天皇元年7月条中)に近江(大友皇子)軍と天武(大海人皇子)方が「上道(かみのみち)に当りて、箸陵(はしのはか)のもとに戦う」とあって、この頃(7C後半)も箸墓沿いを上ツ道が通っていました。
●箸墓南→北  (陵の右端を上ツ道が通っていました)
a0016431_1619334.jpg

この箸墓古墳は3世紀中頃の築造であると考えられ、「前方後円墳」と言われる古墳の中では最古式の一つであると考えられています。また、邪馬台国の女王・卑弥呼(西暦247年頃死去)の墓との説で特に有名です。「 昼は人が作り夜は神が作った 」という伝説を持ち、箸墓(はしはか)と呼ばれる
●箸墓遥拝所
a0016431_16594364.jpg

●箸墓上ツ道あたり、弁天池越しに三輪山をみる
a0016431_1625263.jpg

この歌を掲げるには場所が正面過ぎ、晴れ過ぎですが、よく知られている歌、山ですので正面から構えてみました。
額田王 巻1-0018
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや
by barakan1 | 2005-10-28 16:51 | 旅日記

山の辺の道(巻向編)探訪(05.10.27)①コース概略・・・



a0016431_18345131.jpg●箸墓付近の「上ツ道」より巻向川と後方三輪山
■1年ぶりに山の辺の道(巻向)を探訪してきました。
さすがに有名なハイキングコースであるだけ、平日にも拘らず沢山の人がいました。特に檜原神社では中年の女性の団体さんが休憩をされて賑やかでした。
そして、又々やってしまいました、カメラのメモリー、大容量を忘れてしまい、64Mで撮影する羽目に・・・(気が付いたのが現地でした。指差し点検までしたのに・・・)。仕方がないので、200万画素に落として撮影しました。だから、あまりいい写真にはなりませんでした。(`□´)
柿本人痲呂歌集 巻7-1101
ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音(かはと)高しも嵐かも疾(と)き

●コース概略。天王寺8時半~巻向駅9時半~箸墓古墳~狐塚古墳~茅原大墓古墳~ホケノ山古墳~国津神社~檜原神社~相撲神社~穴師兵主神社~景行天皇陵~巻向駅2時半~天王寺3時半着。実行程5時間の楽な探訪でした。
by barakan1 | 2005-10-27 18:52 | 旅日記

長居植物園のアオスジアゲハ(05.10.21)

一昨日、21日長居植物園へ花の写真を撮りに出かけましたが、撮りたいような花に出会いませんでしたが。花段にコスモスがまだ残っていましたのでメインに撮って来ました。そのうち1匹のアオスジアゲハが蜜を吸いに飛んできて盛んに蜜を吸っていました。出来るだけ近くからと思いましたが・・、動きが速くてなかなかいいアングルを取れませんでした。
a0016431_1683367.jpg

a0016431_1685347.jpg

by barakan1 | 2005-10-23 16:11 | 花探索

真菅~曽我雲梯(うなて)探訪(05.10.16)⑥安寧天皇陵~懿徳天皇陵~軽樹村座神社・・・終章

●畝傍山(慈明寺町・西より見る)
a0016431_1255896.jpg

●    (甘樫丘・東より見る)
a0016431_2140650.jpg

畝傍山の係わる万葉歌
近江の荒れたる都を過(ゆ)く時、柿本朝臣人麿がよめる歌
巻1-0029
玉たすき畝傍(うねび)の山の橿原のひしりの御代よ
生(あ)れましし神のことごと樛(つが)の木のいや継ぎ嗣ぎに
天の下知ろしめししをそらみつ大和を置きて
青丹よし奈良山越えていかさま思ほしけめか
天離(あまざか)る夷(ひな)にはあらねど石走(いはばし)る淡海の国の
楽浪(ささなみ)大津の宮に天の知ろしめしけむ
天皇(すめろぎ)の神の命(みこと)の大宮はここと聞けども
大殿はここと言へども霞立つ春日か霧(き)れる
夏草か繁くなりぬるももしきの大宮処(おほみやどころ)見れば悲しも

巻7-1335
思ひかていたもすべなみ玉たすき畝傍の山に吾(あれ)標(しめ)結ひつ
畝傍山山裾の軽の地で失った妻への挽歌(巻2-0207)等、
畝傍山には淋しい歌ばかりである。
●畝傍山西麓慈明寺
a0016431_12574235.jpg

慈明寺横天神社
a0016431_12595667.jpg

水仙(すいせん)塚古墳
「畝火山口神社」から更に北へ行くと、「天神社」が鎮座し、その北隣が曹洞宗雲飛山中宮院「慈明禅寺(じみょうぜんじ)」で、東側の丘が「水仙塚古墳」です。「畝傍山」の北西麓、低く延びる丘陵の尾根上にある前方後円墳で、全長約65m、後円部の直径約50m、高さ約10m、前方部の長さ約40m、幅約30m、高さ約5m、埴輪の有無、主体部の構造等は学術調査がなされてないから、明らかでないが、学問的に注目すべき古式の古墳で、造成年代は古墳時代前期と推定され、古来より「スイセン塚」と云う名称より、綏靖(すいぜい)天皇陵と伝えられているけど、本居宣長は「古事記伝」で神武天皇陵としています。ー奈良観光より抜粋ー
a0016431_1304353.jpg


■安寧天皇(第3代天皇・欠史8代の一人)
古事記によれば、師木県主(しきのあがたぬし)の祖の河俣毘売(かわまたびめ)を母とし、日本書紀では事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で綏靖天皇の皇后五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を母とする。綏靖天皇の子で、綏靖天皇25年に立太子し、33年に父綏靖天皇の崩御にともない即位する。この天皇の異称は「磯城津彦玉手看尊」(しきつひこたまでみのみこと)で、都は「片塩浮孔宮」(かたしおうきあなのみや)にあったとされる。宮については大和国高市郡畝傍北(現奈良県橿原市四条北)とする説と、堅上(大阪府柏原市)説とがある。ー奈良観光より抜粋ー
●安寧天皇陵
a0016431_13182884.jpg

a0016431_13191677.jpg


■懿徳天皇(第4代天皇・欠史8代の一人)
古事記によれば師木県主の祖、賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)を、日本書紀によれば兄、息石耳命(おきそみみのみこと)の娘、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)を皇后に迎え、観松彦香植稲尊(みまつひこかえしねのみこと:日本書紀)、あるいは御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと:古事記)、武石彦奇友背命(不詳)という皇子女を残したとされている。前者が[第5代孝昭天皇]となる。在位34年で、古事記によれば45歳、書記では77歳で、畝傍山南の繊沙谿上陵(まさごのたにのうえのみささぎ)に葬られた。ー奈良観光より抜粋ー
●懿徳(いとく)天皇陵
a0016431_13214741.jpg

a0016431_1322875.jpg


■軽樹村坐神社(かるのこむらにいますじんじゃ)
祭神  誉田別命
由緒
復興された式内社で、近世までは八幡宮であった。 『大和志』が、式内軽樹村坐神社が「在池尻属軽子邑今廃絶」と記して以来、復興された。 社名は軽樹の村、または軽の樹叢との二説がある。
●軽の社                     ●鳥居
a0016431_13244596.jpg

万葉集 巻11-2656
天飛ぶや 軽の社の斎槻(いはひつき) 幾代まであらむ 隠(こも)り妻そも
●拝殿
a0016431_13261653.jpg

●本殿
a0016431_13264866.jpg

a0016431_13293455.jpg

※今回の旅はこれで終りです。都市化の波がいたるところに及び、古き良きものが失われてゆく!そんな感を強くした、今回の探訪です。
by barakan1 | 2005-10-22 13:35 | 旅日記

真菅~曽我雲梯(うなて)探訪(05.10.16)⑤河俣神社~木葉神社・・・

●バイパスより北(雲梯の杜)方向を見る
a0016431_15434887.jpg

●木葉神社あたり橋より(雲梯の杜)を見る
a0016431_15473497.jpg

■河俣(かわまた)神社
祭神
鴨八重事代主神
由緒
式内社の高市御県坐鴨事代主神社に比定される。『大和志』では藤原京の大極殿跡の鴨公神社としているが、宇奈提と呼ばれた地は雲梯町しかないとされる。 出雲国造神賀詞は、大穴持命が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓うが、 その中に「事代主の命の御魂を宇奈提」に坐せ・・」とあり、宇奈提は現在の雲梯(うなて)町である。 日本書紀に、壬申の乱の時、「われは高市社にいる。名は事代主神」とし、顕わした予言は的中、天武天皇から勝利に功ありとされたとある。神南備にようこそー
●戒智橋より河俣神社を見る
a0016431_1551348.jpg

今井町の南西角から高取川を越えて西へ向かうと、曽我川の戎智橋の袂に万葉集で詠まれた雲梯(うなて)の社が広がり、「河俣神社」が鎮座しています。
巻7-1344
真鳥住む雲梯の社(もり)の菅の根を衣にかき付け着せむ児もがも   
巻12-3100
思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯(うなて)の杜の神し知らさむ
a0016431_15551236.jpg

a0016431_15541663.jpg

昔は大阪の住吉大社から畝傍山の埴土を採りに赴く途中、当社で装束を整えたので「装束の宮」とも云われ、祭神に鴨八重事代主(かもノやえことしろぬしノ)神を祀り、859年(天安3年)に従二位から従一位に昇叙しています。
●拝殿
a0016431_15562889.jpg

●本殿
a0016431_16115788.jpg


■木葉神社
祭神
木花開耶姫命
由緒
富士権現と呼ばれたこともある。『大和志』には川俣八王子とあるのが当社のようで、式内社の川俣神社三座に比定されている。これは八王子が初王子となり更に初穂寺と変わっていったとされ、鎮座地の住所を示しているからと『式内社調査報告4』に記載されている。近くに河俣神社が鎮座、式内社の高市御県坐鴨事代主神社に比定されている。神南備にようこそー
●鳥居                         ●拝殿
a0016431_1632617.jpg

●本殿
a0016431_1635166.jpg

※ 往古はこの辺りから曽我川の支流が西に分岐して、忌部の田畑を潤していたと云う。従って川俣である。
今回のコースの中で、環境的には一番いにしえと異なる状況にあるのではないだろうか!?大きな工場、ひっきりなしに車の通る24号線、異臭、・・・と現代の悪い所が重なって万葉の風情を壊している。
a0016431_1643872.jpg

by barakan1 | 2005-10-21 16:23 | 旅日記

真菅~曽我雲梯(うなて)探訪(05.10.16)④天高市神社~天太玉神社・・・

a0016431_1134524.jpg●豊津橋あたりから畝傍山を見る


ここから曽我川を少し遡ると雲梯の杜である。はるか昔はあの遠くに見える畝傍山からこのあたりまで鬱蒼とした森があったのだろう!?


■天高市神社(あめのたけち) 式内大社
祭神
事代主命 配祀 品陀別命、息長帶姫命、比賣神
由緒  
『大和志』に、「曽我神社南、今(享保年間)入高市八幡と称する。」とあり、続いて「天岩戸を開くべく八十萬神の会合した天高市」に比定しているのは面白い。 『神名帳考証』では高市県主の祖神を祭神としている。誓約で生まれた五男神の天津彦根命と云うことになる。ー神奈備にようこそー
●神社遠景(曽我川堤より           ●鳥居
a0016431_11391861.jpg

●拝殿
a0016431_1141088.jpg

●本殿
a0016431_11414118.jpg

※僅かに曽我川堤から見た風景のみが杜が見えて神社らしく、あとは新興の住宅がギッシリ建て込んで「らしさ」は薄い。

■天太玉命神社(あめのふとたまじんじゃ) 式内大社
祭神
天太玉命、大宮賣命、豐石窗命、櫛石窗命
由緒
延喜式内大社の太玉命神社に松下見林が比定するまでは忌部村の春日神社であった。 天高市に擬せられる天高市神社の南すぐの地で、岩戸開きのシーンに中臣氏の祖の天児屋根命と忌部氏の祖の天太玉命がそろって神事を行い、天孫降臨にも五伴緒に名を連ねて、朝廷の祭祀を司る氏族として、宮殿の造営、祭器を造ることを職掌としていた。
●一の鳥居
a0016431_11473547.jpg

降臨以降、中臣氏の活躍はほとんど見えてこない。物部とともに仏教排斥に動いた程度、記紀の編集の頃の権力が藤原不比等に握られており、神話の中に天児屋根命を無理にはめ込んだように感じる。 忌部氏は朝廷の祭祀氏族から徐々に弾き出され、ついにはゼロに到る。危機感を持った斎部(忌部)広成はその立場を表明せんとして『古語拾遺』を著した。
●拝殿・本殿
a0016431_11483917.jpg

興福寺の興隆で当地もその支配下に入り、ついには式内大社であった忌部氏の氏神でさえ、多分衰亡していたのであろう、春日神社にされてしまったと云う事。  
 ー神奈備にようこそー
※この神社あたりは異臭が酷く、神様の鎮座されているのがお気の毒な状態です。
早々に、退散しました。
by barakan1 | 2005-10-20 11:57 | 旅日記

真菅~曽我雲梯(うなて)(05.10.16)③宗我座宗我都比古神社~金橋神社・・・

a0016431_12132946.jpg●曽我川中曾司町より畝傍山を見る。
磐余橋から曽我川を遡り、近鉄のガードをくぐり、左へ折れ、中曾司町を路なりに、真菅駅方向に行くと、右手に小さな社叢が見えるそれが宗我座宗我都比古神社です。

■宗我座宗我都比古神社(そがにいますそがつひこじんじゃ) (入鹿宮)
祭神 宗我都比古神、宗我都比賣神
由緒 『大和志』に、「曽我村の北に在り。今(享保年間)入鹿宮と称する。」とある。 二体の木像神像を御神体としている。 創祀については『五郡神社記』には、「推古天皇の御代に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀って神殿を蘇我村に造営した。」と記している。また社伝では「持統天皇が蘇我一門の滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男、徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に祖神を奉斎するため土地を賜い、社務と耕作を行わせたのに始まるとし、
祭神を蘇我氏の遠祖、彦太忍信命と石川宿禰の二神とする。
●正面鳥居
a0016431_1215517.jpg

●拝殿
a0016431_12161713.jpg

●本殿
a0016431_12164381.jpg

蘇我川には今でも菅は見られる。菅は神餞を供する敷物などの祭祀に使われた材料で尊ばれたものであり、すがすがしいの語源となった。-神南備にようこそー

a0016431_1217658.jpg●曲川町より西を見る。
入鹿宮より再び曽我川にもどり、少し遡ると曲川大橋に出る。渡ると曲川町である。

■金橋神社(勾金橋宮跡・まがりのかなはしぐうあと)
安閑天皇(西暦四六六-五三五)は継体天皇の第一皇子で勾大兄廣國押武金日天皇(まかりのおほえひろくにおしたけかなひのすめらみこと)の名で親しまれ西暦五三四年春正月に第二十七代天皇として勾金橋宮で即位された。都を大和國盤余(いはれ)の玉穂宮から勾金橋宮の地(橿原市曲川町)に遷されたのは今から千四百五十余年前のことで寛大にして仁恵の深い天皇は此の地で善政を敷かれた。
a0016431_1234428.jpg

●金橋神社
a0016431_12375699.jpg

この由緒ある勾金橋宮跡に安閑天皇の遺徳を偲び、その神霊を祀って創建されたのが権現社である。権現社建立時期は定かではないが明治維新に金橋神社を改稱され人里に接した社地は竹林と生け垣で隔てられ社殿の周囲には古木が聳え立ち千古の霊蹟を今日に伝えている。大正四年十一月に奈良県教育委員会より建設された安閑天皇勾金橋宮跡の記念碑も境内に保存されている。 平成元年11月12日 橿原市曲川町
●拝殿
a0016431_12392186.jpg

●本殿
a0016431_1256695.jpg


■八幡神社 
金橋神社のすぐ隣の杜にある神社。八幡社は村の鎮守さまであろうが余程こちらの方が立派な境内であり、社殿であった。 由緒:不明
a0016431_12444810.jpg

a0016431_12512767.jpg

by barakan1 | 2005-10-19 12:51 | 旅日記