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生駒山麓生駒谷の古墳・古社寺探訪(05.06.27)④竹林寺~美努連岡麿墓 終章・・・

■生馬山「竹林寺(ちくりんじ)」
「奈良時代に文殊菩薩の化身と仰がれた行基大菩薩が、40歳の頃に生馬仙房(いこませんぼう)をかまえた故地で、入寂された時、遺命により生駒山東陵で火葬にし、ここへ葬られました。1235年(文暦2年)行基の舎利瓶が出土し、国重文「行基骨蔵器残片」は現在奈良国立博物館に所蔵されています。またここはその昔、円照(えんしょう)、良遍(りょうべん)、忍性(にんしょう)、凝燃(ぎょうねん)ら高僧が集い堂塔を整えましたが今は衰え、寺名の「竹林寺」は文殊菩薩の霊場中国の五台山大聖竹林寺に因みます。ー奈良観光ー
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●竹林寺本堂
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有里町の竹林寺境内にあります。 古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。 生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。 前方部を宅地で削られていますが、推定全長60m、後円部の径は約45mあります。 生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と考えられます。 一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、 生駒谷の古墳時代を解明するうえでもたいへん重要な古墳です。ー奈良観光ー
●竹林寺古墳〔ちくりんじこふん〕
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行基は、668年(天智天皇7年)に和泉国大鳥郡の家原寺で生まれ、父は、高志才智で、先祖は「論語」「千字文」を伝えた渡来人の王仁、母は蜂田古爾比売です。15才で出家し、24才で高宮寺徳光禅師から授戒。初めは法興寺に住し、後に薬師寺へ移り、法相宗を学ぶ。彼は社会事業に尽力して、生涯で新造、修復した物は、架橋6、直道1、池15、溝6、樋3、船息2、堀4、布施屋9に達し、75才で大僧正に任命されて、大仏鋳像にも勧進し、天平21年82才で寂。3月23日に弟子の真成が行基の伝記を舎利瓶に入れて、ここに埋める。ー奈良観光ー
●「行基墓」(ぎょうきぼ)
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「竹林寺」の境内西側に「忍性墓」があり、鎌倉時代の律宗の僧忍性は、1217年(健保5年)大和に生まれ、西大寺の叡尊の弟子で、行基を敬い、彼も慈善救済事業に務め、1261年(弘長元年)に鎌倉に赴き、光泉寺を開山し、極楽寺第一祖となり、関東に戒律を広め、また、北条時宗の命により蒙古軍襲来時に退却を祈願し、後に後醍醐天皇から「菩薩」の称号を与えられ、1303年(正安5年)極楽寺で亡くなり、遺言によって竹林寺、極楽寺、大和郡山の額安寺に分骨されました。昭和61年発掘調査により墓塔下から銅製骨蔵器など、36点が出土しました。ー奈良観光ー
●竹林寺西墓の五輪塔「忍性墓(にんしょうぼ)」●竹林寺五輪塔残欠(忍性墓塔)
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■美努連岡萬(みのノむらじおかまろ)墓
701年(大宝元年)山上憶良らと共に遣唐使で中国へ渡り、716年(霊亀2年)従五位下に叙されて、宮内省主殿寮の長官で、728年(神亀5年)68歳で没。墓は730年(天平2年)に営まれ、明治5年墓誌が土採り中の地元青年により見つかり、昭和30年国重文に指定されて、現在東京国立博物館に所蔵。墓碑は、明治11年に建立され、また、昭和59年の発掘調査で、岡萬の遺骨の一部が出土し、墳墓の構造は竪穴の四角い土壙(どこう)の中に遺骨を納めた木櫃(もくひつ)が安置され、その周囲を木炭で被い、土を積み上げた小さな墳丘です。ー奈良観光ー
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●春日蔵首老(かすがのくらひとおゆ)彼が渡航の祭に、彼のために詠んだだ歌
ありねよし対馬の渡り海中(わたなか)に幣(ぬさ)取り向けてはや帰り来(こ)ね  巻1-62
★そこだけ取り残されたように小山のように残っていました。昔はなだらかな丘の続く、丘陵地帯だったのでしょう・・・。千数百年の昔を偲び、見晴らしのいい頂上に立つと、風だけが昔と変わらず吹いてきました!!
by barakan1 | 2005-06-30 14:19 | 旅日記

生駒山麓生駒谷の古墳・古社寺探訪(05.06.27)③(伝承)有間皇子の墓・・・

●近鉄線より御所の藪方向(東)を見る   ●同所より生駒山方向(西)を見る
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■(伝承)有間皇子の墓
御所の藪と呼ばれている竹藪の中にあります。
『日本書紀』によると、斉明天皇4年に蘇我赤兄にそそのかされた有間皇子が捕らえられたのは、「市経(いちぶ)の家」でした。それが現生駒市の一分(壱分)だと言われています。この一分という場所は、難波から奈良へと通じる暗峠(くらがりとうげ)を超えてすぐの所です。
●御所の藪の墓近くの畑より(西)生駒山方向を見る
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★御所の藪近くの畑(写真あり)から生駒山を眺めると今は家がギッシリと詰まっていますが、その昔は生駒丘陵のなだらかな岡が続きこの谷全体を見渡せたのでしょうね。そして山を越えた向うに住む父・孝徳天皇の難波宮のことを思ったり、また平群谷を越えて、明日香の都へも通っていたのでしょう。何処をどう通ってのか分かりませんがその人がかつて住んで居た所と考えると、古の人ですが、懐かしく身近に感じます。
●(伝承)有間皇子の墓
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竹薮の中にヒッソリと崩れ落ち散らばった五輪の塔は、人の世のはかなさ、虚しさを象徴しているようです。(あまりのさびしさに、金縛りにあう人もいるそうですから・・心をシッカリもって訪ねてください)
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古の人達が有間皇子の悲劇に同情し、住んで居た場所に五輪塔を建て、ヒッソリとお祀りしてきたのではないでしょか。そう考えると、ますますロマンが膨らみます。
このお墓はかなり分かりづらいですが、私も散々迷って辿り着きました。称名寺・無量寺の脇を東(竹薮もしくは山の方)へ細い道を進むとあります。背の低い、小さなものですからあまり目立ちません。

■■ 有馬皇子  (古代日本・白鳳時代に生きた悲劇の皇子)
『日本書紀』では、孝徳天皇の死後、皇位継承権を持つ有馬皇子は中大兄皇子ににらまれない為、気が狂ったふりをしていましたが、蘇我赤兄にそそのかされ、謀反を計画。その蘇我赤兄に裏切られ有馬皇子は謀反の罪で捕まってしまったのです(中大兄皇子と蘇我赤兄によって仕組まれた謀反といわれていますが・・)若干19歳の少年です。上手く蘇我赤兄に騙されたんでしょね!! その時に万葉集に有名な歌を残しています。

有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む(巻2-141)
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻2-142)

【鑑賞】万葉集巻二、「挽歌」の部立の頭に置かれている。一首目、「松が枝を引き結び」とは、松の枝と枝を紐などで結びつけることで、旅の安全や命の無事を祈るまじないである。二首目の「飯を…椎の葉に盛る」もまた、神へのお供えをして息災を祈ったものであろう。この直後に訪れる運命を知ればこそ、神の前に跪き、ささやかにして重大な旅の所作をなす皇子の姿は悲痛を誘う。この「結び松」は後世に伝わり、長意吉麻呂・山上憶良たちによって歌い継がれた。ー千人万首よりー
  
★中大兄皇子の尋問に、「天と赤兄ぞ知る。われ もはら知らず」と答え、藤白坂で絞首されるという悲劇の皇子です。この藤代坂にも有間皇子の墓があるそうです。こちらのはチャントした陵墓になっているようです。国道42号線の藤白坂は釣行で何回も通っているのに一度も訪ねたことはありません。いつか、きっと訪ねたく思います。
by barakan1 | 2005-06-29 11:00 | 旅日記

生駒山麓生駒谷の古墳・古社寺探訪(05.06.27)②生駒神社・・・

●国道168号より生駒神社・社叢&生駒山をみる
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■生駒神社 由緒 神社庁平成祭礼CDから(抜粋)
神社名:現在は往馬坐伊古麻都比古神社と往馬大社の二通りに称しています。
御祭神 :伊古麻都比古神(産土大神)、伊古麻都比賣神(産土大神)、気長足比賣尊(神功皇后)足仲津都比古神(仲哀天皇)、譽田別尊(応神天皇)、葛城高額姫尊(神功皇后の母君)気長宿称王尊(神功皇后の父君)、この他にも境内に摂社十四社、境外に摂社六社が合せ祀られています。
●神社正面
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●広場中央 神主座
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●広場左右 宮坐
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●正面は   お旅所
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神社の歴史
当社の正確な創立年代は明らかではありませんが、大神神社や石上神宮と同じように生駒山を神体山(御神体)として祀られた日本で最も古い形態の神社でありますので、おそらくこの生駒谷に人々が住み始めた太古の頃から生駒地方の守り神としてこの地に存在いたしました。 歴史書物の中で往馬大社に関する最も古いものは、『総国風土記』の中の「伊古麻都比古神社、雄略三年(四五八年)」とあるものです。
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●写真上右(茅の輪くぐり)
この茅の輪は毎年6月30日に行われる、夏越大祓(なつこしおおはらえ)の祭に用いられるもので、この輪をくぐることにより、半年間の罪穢(つみけが)れをお祓いし、健康長寿を祈願します。また茅の輪を8の字にくぐったり、茅(かや)の葉を持ち帰り、輪にして家の玄関につけたりする風習があります。 -往馬大社ー
私も頂いてきましたので、家に付けたいと思います。
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火燧木(ヒキリギ)の神
我国最大の祭祀であり、歴代天皇の御即位の大祀である踐祚大嘗祭に用いられる火燧木は、代々往馬大社より献上したもので、今上陛下の大嘗祭にも、橿原神宮で行われた紀元二、六〇〇年祭にも当社の火燧木が御使用されました。
●拝殿左右から見る
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●正面本殿と祭神名札
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このような歴史の元に、毎年十月十日十一日の両日に執り行なわれる往馬大社の御例祭(火神祭)は壮大な火祭として、市内近郊はもとより遠方からも多数の参拝者があり、また古くから龍田大社の風神祭、廣瀬神社の水神祭と共に朝廷の深い信仰を受けてまいりました。
●本殿
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●生駒神社付近より東(有間皇子の墓)方向を見る
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by barakan1 | 2005-06-28 19:06 | 旅日記

生駒山麓生駒谷の古墳・古社寺探訪(05.06.27)①コース概要

●有間皇子の墓(御所の藪)の付近の道より生駒山系を写す
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■クソ暑い中、生駒山麓生駒谷を探訪してきました。あまりの暑さに途中でバテ、コースを短くして帰宅しました。
天王寺9時~近鉄生駒線一分駅10時半~往駒神社~(伝承)有間皇子墓~竹林寺(行基墓、忍性墓)~美努(みぬ)連岡麻呂の墓~近鉄一分駅~天王寺16時半着。歩行程は5時間弱でした。
後は生駒山口神社を回る予定でしたが、次の機会にします。
by barakan1 | 2005-06-27 19:46 | 旅日記

今年はいいかも?

今年はいいかも?今日T君が和歌山へ釣りに行き、マメアジを400匹程釣りもって来てくれる。
久しぶりの釣行だそうだが、入食いだったそうだ。あまり釣れるのでエサを撒き網ですくってみたが、沢山すくえたそうだ。それくらい今年はアジは湧いているようだ。この分だと秋には大きくなり夜釣りの一本釣りが楽しみだ。去年はどこか変で、アジ・イワシ共にまったくと言っていいほど釣れなかった!それに比べると、少し時期は遅れているようだが順調なようなのでたのしみだ。
by barakan1 | 2005-06-26 22:27 | 日々雑感

梅雨は何処へ行ったのか?・・・

●平群谷の花a0016431_2153435.jpg
梅雨は何処へ行ったの?この2日、あまりの暑さに出かける気も起きず家に居ました。それにしても梅雨はどこへ? 夏は暑く、冬は寒いこれが天然自然の法則です。それが梅雨になれども雨が降らない。各地の水瓶はドンドン水が減って、この夏が越せるかと心配している地方も多いようです。早く大雨の降るのを願っています。来週あたり、平群谷のつづき生駒谷を探訪してみたいと考えていますが??どうなりますか?
by barakan1 | 2005-06-25 21:55 | 日々雑感

生駒山麓平群の古墳・古社寺探訪(05.06.18)⑥平群坐紀氏神社~雲甘寺坐楢本神社 終章・・・


●平群坐紀氏神社前よりみる平群谷、生駒連山
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■平群坐紀氏神社  「式内名神大」
祭神:天照大神、都久宿禰、天児屋根、八幡大菩薩。
由緒,伝承:社頭掲示概略
辻の宮、椿の宮と呼ばれていた。祭神は平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)=(都久宿禰)で、紀船守(紀氏もしくは平群氏の末裔)がその祖、平群木菟を祀っている。 中世には春日神社にもなっていた。本殿は春日造りで朱塗り、銅板葺き。延宝七年(1679年)の石灯籠が最も古い。
影媛の恋人、平群鮪(しび)の本拠地です。
●神社遠景                    ●鳥居
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●鳥居外から                   ●鳥居内から
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影媛あはれ 
【由来】武烈天皇が皇太子だった時、大臣平群真鳥(へぐりのまとり)は国政を擅断(せんだん)し、数々の無礼をはたらいた。ある日、皇太子は物部麁鹿火のむすめ影媛を娶ろうと思い、仲介の者を影媛の家に遣った。ところが影媛は、すでに真鳥の息子鮪(しび)と情を交わしていた。影媛は「海石榴市(つばきち)の巷でお待ちしています」と返事をしたので、皇太子はそこへ出掛けていった。市では歌垣が行われていた。皇太子は影媛の袖をとらえ、ついて来るように誘った。そこへ鮪がやって来て、二人の間に割って入ったので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪との間で歌を応酬した。皇太子は鮪の歌によって鮪がすでに影媛を得たことを知り、顔を赤くして怒った。この夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村は数千の兵を率い、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで追ってゆき、鮪の処刑されるのを見た。驚き混乱し、目に涙があふれた。そこで「石上…」の歌をよみ、鮪のしかばねを土に埋めた。家に帰ろうとした時、むせび泣いて「なんと苦しいこと。今日愛しい夫を失った」と言い、再び涙を流して「あをによし…」の歌をうたったという。
●境内
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石上(いすのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ 物多(さは)に 大宅(おほや)過ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ 嬬籠(つまごも)る 小佐保を過ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いひ)さへ盛り 玉椀(たまもひ)に 水さへ盛り 泣き沽(そぼ)ち行くも 影媛あはれ(紀)
【通釈】石上の布留を過ぎて、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、佐保を過ぎ、お供えの美しい食器にはご飯まで盛り、美しいお椀には水さえも盛って、泣き濡れて行くのよ、私。影媛、ああ可哀相に。
●拝殿                         ●本殿
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あをによし 乃楽(なら)の峡間(はざま)に 鹿(しし)じもの 水漬(みづ)く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそ)ぐ 鮪(しび)の若子(わくご)を 漁り出(づ)な 猪(ゐ)の子(紀)
【通釈】奈良の谷間で、射殺された獣のように、水がひた寄せる岸辺にひっそり斃れ、水びたしになっている、鮪の兄さん。それを探し回って、あばき出すようなことはしないで、猪さん。  ー千人万首よりー
●摂社                        ●手水舎
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●灯籠               ●狛犬
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■雲甘寺坐楢本神社 式内社
●北東より神社を見る
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●神社全景(南より)
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延喜式の雲甘寺坐楢本神社が当社とされ、江戸期には白山権現社、明治には野田明神とも呼ばれ、祭神は菊理姫命。水滴に宿る神で、産土神(清明の根源の神)にあたる。元は東500m付近の丘の上にあった雲甘寺の鎮守社であったが、明治初年(1868)に寺が廃され同2年頃に現在地に遷座されたという。
●神社南入口                    ●神社東入口
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拝殿の奥に立派な朱塗りの本殿があり、伝承では雷難除去にご利益があったという。摂社の春日社は吉田村の氏神を合祀殿という。梨本村・西向村・吉新大字(吉田村・新家村)の四村の氏神で宝永3年(1706)の改帳には5*9尺の白山権現社を中心に252坪の広い境内を有していたとある。
●社務所、境内
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●拝殿
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●本殿
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延宝6年(1678)の石燈籠や白山権現と彫られた、元禄16年(1703)手水石が境内にあり、文久2年(1862)の湯釜も伝わる。
●手水舎                       ●境内石燈籠
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★平野の真中にポツンと杜がある感じで、神秘さとか、荘厳さには欠けるがよく手入れされた境内は明るく落着いている。日頃よくお参りする、出来る産土神そのものだ。
by barakan1 | 2005-06-23 15:03 | 旅日記

2年振りの雑賀崎です(爆釣です)・・・

昨日は、(05.06.21)2年ぶりに雑賀崎に小あじを釣りに出かけました。13時に出て、御崎着は16時という大変な釣行でした。和歌山まで3時間もかかったのは初めてです。釣果といえば、4時開始直後は入食いだったものが30分ばかりで食い止み、棚を変え、仕掛けを変えてもどうしても食わなくて、何だか自信が失せてきそうになった丁度そのとき17時半。この時を合図に突然入食いとなる。それからは納竿の19時まで入食いは続いた。隣の人はまだ釣っていたが入食いモードは止むことはなかった。ただ、アジが小あじではなく、マメアジだったこと(5センチ前後)、もう二潮ほどたてば立派な小あじとなって、引きを充分楽しませてくれるだろう!!今年は去年のようなことはなく、楽しめそうな雰囲気であるし、是非そうあってもらいたい。最終釣果は200匹ほどいたのではないか!?
by barakan1 | 2005-06-22 17:13 | 釣行日記

生駒山麓平群の古墳・古社寺探訪(05.06.18)⑤船山神社~三里古墳~長屋王・吉備内親王墓・・・

■船山神社
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説明板によれば、「三里大字の安明寺と中之宮の氏神で、祭神は船山神と天児屋根命(春日神社の祭神)、住吉大明神。当地は安明寺の氏神である春日神社の境内地で、大正4年頃に中之宮の氏神で式内社の船山神社(旧社地は南東200mの東光寺東側)を合祀したものである。
●入口付近                   
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境内後方の矢田丘陵八合目付近には、丸木船状の三つの巨石があり、神が乗って地上に下ってきた船石として信仰されてきた。この三石については、『神祇志料』にもみえ、近世に船石付近に祀られていた船上(船神)神社を山麓の船山神社に合祀したともいう。
●狛犬              ●本殿への階段
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磐座信仰を伝える古社であり拝殿横には立派な陽石が旧社地から移されている。」と書かれています。
●本殿全景
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●本殿全景                   ●本殿
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●陰陽石                     ●船形手水石
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★昼尚暗き!とよく言いますが、まさに当所はそれです。矢田丘陵の裾野にあたり、また神社境内という事で守られて来たのでしょう、薄暗く神霊を感じさせる雰囲気です。でも怖いということはありません、なぜならば、平群谷の中ということで、音が拡散せず、電車の音などが結構響いてきますから・・・。瞑想する境地にはなれないかも・・・!?
●船山神社からみた平群谷
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■三里古墳
小高い丘の上にある古墳。墳丘の封土はおろか、石室の石もほとんどなくなっている。玄室長4.4m、幅2.4m、高さ3m、羨道長4,6m、幅1.4m。両袖式の横穴式石室で、玄室奥壁の高さ70cmのところに幅2.5m、長さ1.45m、厚さ45cmの石棚が設置されている。このような石室は珍しく、県内では岡峰古墳、槙ヶ峰古墳のみで、他には和歌山県紀ノ川流域の古墳だけである。羨道部には箱式石棺が残り、玄室から羨道を通り排水溝がある。
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玄室西よりに凝灰岩製の組合せ家形石棺がまず安置され、その後、羨道奥の組合せ石棺、棚の上下、玄室の東側、羨道前部にそれぞれ木棺が追葬されていたと考えられている。
★古墳への入口が分からず、近所のおじさんに尋ねたところ、口では説明しにくいと近くまでワザワザ案内して頂く。恐縮しました。歩いての探訪はこれがあり、出来るから楽しいのです。

■長屋王墓  (奈良時代の悲劇「長屋王の変」の主人公)
長屋王は天武天皇の孫で左大臣であったが、いずれ天皇になることを怖れた藤原氏が、王に謀反の疑いをかけて文武天皇の妹吉備内親王との間の子供4人共々自殺させてしまう―。続日本紀には、729年 2月13日に、王と内親王を生駒山に葬ったとあり、1000年後の大和志にも両墓の場所が記されている。しかし、実際の場所は不明という。
●陵墓遠景                  
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〔神亀〕六年己巳(つちのとみ)、左大臣長屋王の死(つみなへ)賜へる後、
倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)のよみたまへる歌一首 巻3-441
大皇(おほきみ)の命畏み大殯(おほあらき)の時にはあらねど雲隠り座(ま)す
膳部王(かしはでべのおほきみ)を悲傷(かなし)める歌一首 巻3-442
世間(よのなか)は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける
(膳部王は長屋王の息子です)
●陵墓正面より
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●長屋王、馬を寧楽(なら)山に駐めて作れる歌二首
佐保過ぎて奈良の手向に置く幣(ぬさ)は妹を目離(めか)れず相見しめとそ(万3-300)
【通釈】佐保を通り過ぎて、奈良山の手向に置いてゆく供え物は、愛しい妻に絶えず逢わせてほしいとの願い故なのだ。
岩が根のこごしく山を越えかねて哭(ね)には泣くとも色に出でめやも(万3-301)
【通釈】岩がごつごつと根を張っている山を越えるのが辛さに、声挙げて泣くとしても、妻への思いを顔色に出したりするだろうか、そんなことはすまい。ー千人万首ー

■吉備内親王(きびないしんのう)(草壁皇子と元明天皇の子)
長屋王と吉備内親王墓は精々200m程度しかないのにまったく互いの墓所からは見えません。住宅開発でギッシリ家が建て込んでいます。夫婦の間に邪魔者が入り込んで意地悪をされているみたいでチョット可哀想です。
●入口
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●陵墓
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by barakan1 | 2005-06-22 16:56 | 旅日記

生駒山麓平群の古墳・古社寺探訪(05.06.18)④剣上塚・西宮古墳~平群神社・・・

■剣上塚(けんじょうづか)古墳a0016431_11524291.jpg
生駒山地から東に延びる尾根の先端付近に造られた古墳で、直径約28m、高さ3.6mの円墳。西側には尾根と墳丘とを区画する幅2m程の堀割が廻っている。 墳丘裾付近で円筒埴輪列が確認されたほか、形象埴輪(器種不明)の破片、須恵器片の散布もみられ、6世紀前半頃の築造と推定されている。 墳丘の現状から平群谷に多くみられる横穴式石室ではなく、墳丘に直接木棺を埋葬した[木棺直葬]の可能性が考えられている。

■西宮(にしのみや)古墳
一辺約36mの3段築成の方墳で,尾根をコの字状にカットして造られています。玄室は天井、奥壁,側壁すべて一枚石を使ったみごとなもので,玄室長3.6m,玄室幅1.8m,玄室高さ1.8m,羨道長9.1m,羨道幅1.5mを測ります。
●全景                    ●正面より入口部
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石室入り口の天井石の傾斜角は,上段から中段にかけての墳丘斜面の傾斜角と同じになるように,また,羨道側壁の先端は斜めに加工してあります。そして,羡道の床面と2段めテラス面とが一致しています。
●入口より                  ●奥より羨道部
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被葬者には山背大兄王の墓との説があります。

■平群神社
祭  神:大山祇神
境内由緒記によりますと、「御祭神大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖武内宿祢が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願し、この地に祀ったと伝う。のち五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰をあつめ、今日に至る。延喜式神名帳に『平群神社五座(並大、月並、新嘗)』とあり、神宮寺としても龍華山西宮密寺があった古い社格の神社である。」だそうです。
●神社全景                  ●正面鳥居
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近くの三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式であることや、平群氏と同族とされる紀氏の居住地でもあり、あるいは両族の祖である武内宿禰を祀っていた可能性もある。日本書紀では、即位前の武烈天皇は大伴金村と共に平群真鳥・鮪を討ち、これ以降平群氏は衰亡していくので、同時にこの神社の祭神も衰退したのだろう。こじんまりしていて、さも村の鎮守さまと言う風情です。
●拝殿                         ●本殿
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by barakan1 | 2005-06-21 12:08 | 旅日記