カテゴリ:神社仏閣探訪( 22 )

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)⑦山崎神社・・・おわり

山崎神社    岩出市赤垣内108
★正面鳥居
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御祭神
■(主祭神)大市比売命 大山津見命 須佐之男命 (配祀神)奥津彦命 奥津姫命 火加具土命 大年神 水波能売命 八衢彦命 八衢姫命 久那斗命 誉田別命 八王子神 伊弉册命 天児屋根命 上筒男命 市杵島姫命 天照皇大神 他一三座
★狛犬
a0016431_14575585.jpg摂社
五十鈴神社 寿福神社 八阪神社 金刀比羅社 牛神社 稲荷社









★参道・境内
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★手水舎・狛犬
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■由来
 当神社は、人皇七五代崇徳天皇の御代大治元(1126)年丙午5月、鳥羽天皇が根来寺を下山され熊野三山へ向われる途中、真田の里まで進まれたとき、にわかに天候が変わり、雷雨はげしく行列を進めることが出来なくなり、お供の人々が心なやみ、天地の神にお祈り申し上げたところ、雲間より神様がお姿を現し、わたくしは、大山津見の御子、大市姫神なり、雷雨をすぐに鎮めますからお発ち下さいというと、たちまちに晴天白日が輝き、神のお姿が雲に乗って消え去り、天皇はしばらくここに、御輿をとめられたので、この地を輿止めと呼び、松の大木が繁っていたが今はその松林もなく人々から忘れられている。
★境内・拝殿・本殿
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その後、上皇がこのことを大変よろこばれて神社の神官をおよびになり、詳しく事情をおききになられ、お使いの人をお詣りさせ、幣帛料・物品をお供えされたということですが、天正年間、秀吉の根来攻めにより兵火にあって、本社・摂社及び古い記録などが焼失してしまった。
★拝殿
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★拝殿内
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その後、仮の社殿を建て「雷除祈願」として今も大市姫明神、雷除祈願所と記された年代不詳の古い石碑1基が残っている。
★本殿右五十鈴神社            ★)本殿左寿福神社
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徳川頼宜候も祈願されたということで当時の老松が1本残り、雷除の松と呼ばれ(日本名木集に掲載された事があると聞く)、昭和4年2月に県の天然記念物に指定され近在近郷の人々にありがたい松と親しまれていたが、昭和10年惜しくも枯れ果てて、直径1m80㎝の根元一切を記念に残して伐採された。
明治40年、大市姫神社を山崎神社と改称する。
★八坂神社と手前は牛神社             ★)稲荷社
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ー和歌山県神社庁ーHPより
※大市比売とは、少し、調べてみました。
須佐之男命の妻で、大山津見神の娘。
須佐之男命との間に、大年神と宇迦之御魂神を生んだ。

by barakan1 | 2016-03-13 15:22 | 神社仏閣探訪

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)⑥荒田神社・・・

荒田神社 (式内社)   岩出市大字森237番地
◆境内案内板
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■御祭神
天疎向津姫命 気長足姫命 誉田別命 大山咋命 大山祇命 天忍穂耳命 大巳貴命 秡戸九柱神 市杵島姫命 素盞鳴命 菅原道真 香具都智命 大社命 大國主命 白髪命
◆正面鳥居
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■由来
当神社も天正の兵火のため、伝うる文書等は一つも存在していないが、『紀伊続風土記』に次の様に記され往時が偲ばれる。
「荒田神社、境内周二町四十間、祀神、高魂神、剣根命、拝殿、神楽所、御供所、攝社、丹生明神社、末社、二社 延喜式神名帳那賀郡荒田神社二座、本国神名帳那賀郡地祇従四位上荒田神、森、堀口、川尻、今中、西坂本、押川六箇村の産土神なり、古は岩出、山崎両荘の総産土神にて荘中の末社百二十社と言伝う、祀宇も壮巖に神職も九名あり、社領十町八反二畝ありしに天正の兵火に罹りて祀宇尽燒亡し、縁起寄附状宝物等皆紛失し社領皆没収せらる、是より神事祭礼廃絶す 且中古以来両部に祭りて社地に別当寺を置来たれり、寛文年中命ありて唯一に復して別当寺を外に移し、神事祭礼稍舊に復する事を得たり、此の神は式に二座とありて和泉国大鳥郡陶器荘にも、陶荒田神社二座と見ゆるに後世両部に祀りし等、改めしや宮居三社造となし来り、且地名弘田なるを以て攝津國廣田社と同神にて、天疎向津姫尊とし、神功皇后、譽田別天皇を合せ祀るといひて三座の数に合せたる説あれとも索強附会にして取るに足らず、神主を西堀氏という」とある。
ー和歌山県神社庁HP-より
◆拝殿
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■祭神高魂命は即ち高御産巣日神(古事記)であっ て、劔根命はその五世孫にあたり、その子孫に葛城直があ り、荒田直もその一族であって、「劔根命之後」である。
『名所図会』によれば、当社は「荒田の直が祖高魂命、お よび劔根命」を祀ったことになる。葛城直といえば、「九州日田の豪族として、神武天皇の東征に従」(『姓氏家系大 辞典』)ったと考えられ、おそらくは紀伊国とも無縁ではな かったろうし、荒田別は、紀伊国荒河戸畔の女を母にもつ 豊城入彦命(崇神天皇紀)四世の孫であって、鹿我別らと共 に、神功摂政四十九年(三六九)には、卓淳国に渡り、新羅 国を破った(神功皇后紀)武将たちであって、紀氏を代表す る紀水軍とも関係深かったと思われるし、更に摂社に「丹 生都比賣神」を祀っていることなどよりして、古代紀伊国 とも縁故深く、この地に祀られたものと考えられ、地方豪 族の尊信も高かったことと思われるが、これを證する資料 はない。    -『式内社調査報告』-
◆本殿(木造銅板葺流造 24,8㎡)
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※そんなに社格のある神社とは思っていませんでしたが・・・。式内社だそうです。そのため写真が少なくなりました。油断するものではありませんね。
幣制年、解体修理が完成し美しく生まれ変わりました。
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by barakan1 | 2016-03-12 14:25 | 神社仏閣探訪

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)⑤西国分塔跡・・・

西国分塔跡   和歌山県岩出市西国分
◆案内板と石碑
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聖武天皇は741年(天平13年)に諸国に国分寺と国分尼寺(尼寺)の建立の詔を出しました。これを受けて、紀の川市国分寺(現在史跡紀伊国分寺歴史公園となっている場所)に紀伊国分寺が建立されましたが、国分尼寺の方は、国分寺から西方に800mのこの地に、白鳳期に建立された寺院がすでにあり、国分尼寺として使用されたと推定されています。平安時代以降になると廃絶したようです。昭和50~51年の発掘調査では塔の礎石の一部が確認されましたが、その他の伽藍跡については、後世の土地の改変が著しく、発見されませんでした。
◆全景と塔心礎
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発見された塔の心礎は砂岩製で、上面には直径87cm、深さ9cmの塔柱の座が彫られています。座の中央には、直径14cm深さ15cmの仏舎利を入れる穴があります。さらに心礎の下には、平坦な4個の石が並べられていて丁寧な造りになっているようです。 昭和3年2月7日に国の史跡として指定されました。(2011.8.4)    
現地説明板     ーきのくに風景讃歌ーより
by barakan1 | 2016-03-11 19:48 | 神社仏閣探訪

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)④紀伊国分寺跡・・・

史跡紀伊国分寺跡歴史公園  〒649-6428  和歌山県紀の川市東国分
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国分寺は741年(天平13年)聖武天皇により、全国に60余箇所に建立の詔が出されて建造されたものです。いずれも七重塔・金堂・講堂塔を有する壮大な伽藍でした。
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紀伊国分寺もその一つでしたが、当時の建物は全て焼失し、現在の本堂は講堂跡に江戸時代に再建されたものです。かつての姿を知るために1972年(昭和47年度)から発掘調査が進められ、2000年に完了。
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一方保存整備事業が1988年(昭和63年)から並行して進められ、15年の歳月と5億円をかけて2002年に「史跡紀伊国分寺跡歴史公園」として完成しました。
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※※各地で国分寺は見てきましたがここ紀伊国分寺跡は基壇跡や礎石も残り、そしてよく保存されています。西国分塔跡(国分尼寺跡)に比べると雲泥の差ですが・・・、それもその寺が持つ運命なのでしょう。
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by barakan1 | 2016-03-10 16:04 | 神社仏閣探訪

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)③日吉神社・・・

日吉神社     和歌山県 紀の川市 東国分734
◆神社全景
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★御祭神    
大山咋命 大己貴命 市杵島姫命 須佐男命 神皇魂命 埴山姫命 蛭子命 国常立命 誉田別命
★本殿   (木造三間社流造銅瓦葺切妻千鳥破風軒唐破風
◆狛犬
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★由来
紀伊国分寺本堂の北東約200mの杜叢の中にある。
古くは山王権現社と称して紀伊国分寺の鎮守社であった。
また、東西両国分村の産土神(現在は紀の川市東国分・岩出市西国分)としてあがめられてきた。
本殿は三間社流造、屋根はもと檜皮葺、正面中央に千鳥破風を設け、さらに軒に唐破風をとりつけるなどしていたって派手に造られている。
◆拝殿・本殿
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これに呼応するかのように絵様や繰形などの彫物も多用するから、そこから受ける感じはずいぶん賑々しい。
さらに柱上部から組物にかけて極彩色を施し軒や縁まわりは紅柄塗と塗分けている。
建立年代を直接示す資料はないが、当地方社殿の年代観からは17世紀に入るものとみてよい。
桃山時代の雰囲気を色濃く残す江戸時代初期の流造本殿、妻飾り等に特色があり、県内では珍しい形式をもった建造物である。   ー和歌山県神社庁ーより
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by barakan1 | 2016-03-09 16:30 | 神社仏閣探訪

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)②根来寺・・・

新義真言宗 総本山  根来寺  〒649-6202 和歌山県岩出市根来2286 
★根来寺案内図
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★大伝法堂~大塔~大師堂
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根来寺の歴史
根來寺(ねごろじ)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。13歳で京都・仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。
■大伝法堂
根來寺の本堂で文政10年(1827年)に再建され、本尊は大日如来で、脇仏は金剛薩?(こんごうさった)、尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)です。この堂は真言宗の最も大切な修法を伝える道場で「傳法大会」「傳法潅頂」など、僧侶が厳しい修行をする場所です。
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やがて鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。しかし大伝法院方は高野山の一部の人たちとの間に確執を生じ、結局、保延6年(1140)に根来に移ることとなりました。
■大毘廬遮那法界体性塔(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)
  通称・大塔(国宝)
この塔は、真言密教の教義を形の上で示したものです。天文165年(1547年)に完成しました。日本最大の木造多宝塔で、明治32年に国宝に指定されている。また、豊臣秀吉の紀州征伐の焼打ちから残ったものですが、その頃の戦乱の弾痕がはっきりとみられます。 高さ40m 横幅15m
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その頃の根来には豊福長者(とよとみちょうじゃ)が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵がありましたが、覚鑁上人は、その草庵を建て直し豊福寺(ぶふくじ)と名付け、学問所として「円明寺」を、お住まいとして「密厳院」を造られ、康治2年12月12日(1143)に根来にて49歳の生涯を閉じられました。
■大師堂
真言宗を開宗された弘法大師・空海像を本尊として祀っています。明徳2年(1391年)に建立つしました。焼打ちから残ったもので、重要文化財に指定されています。
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覚鑁上人の入滅後、大伝法院衆徒の一部は高野山に戻りますが、その後、正応元年(1288)頃、頼瑜(らいゆ)僧正が再び高野山から大伝法院の僧侶を率いて根来に移ってまいります。
■不動堂
「三国一のきりもみ不動」で有名な不動尊を本尊として延宝5年(1677年)までには、再建されたと考えられています。興教大師覚鑁が難に遭われた時に身代わりとなって守られたので、この名があります。その為、交通安全・厄除祈願の身代わり不動さんとして有名です。
この不動堂は平面は正八角形で、外廻り柱は八角柱、内廻り柱は円柱、外陣は畳敷、内陣は床を一段高く構え板敷になっています。県下に遺存例の少ない八角堂として重要な建造物です。
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頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成しました。中世根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であったことが、伝えられた多くの聖教資料から近年明らかになりました。当時の根來寺境内を示す「根来寺伽藍古絵図」には、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍と中性院に代表される教学を伝受する300~400の院家が描かれております。
■光明真言殿(光明殿)
略して「光明殿」といい、文化元年(1804年)に落慶しています。現在は開山興教大師覚鑁のご尊像を安置し、左右には歴代藩主・座主の位牌を始め信徒の位牌が祀られ、日夜回向がなされています。
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戦国時代、大きな勢力を備えた根來寺は、当時の様子を書いた宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されています。しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山消失してしまいました。
■鐘楼門
鐘楼がと付いた門です。毎日、午前6:00に鐘を鳴らしています。除夜の鐘もこちらでお付きできます。
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その後しばらく復興を許されませんでしたが、やがて紀州徳川家の外護を受けて、大門・伝法堂・不動堂など主要な伽藍が復興され、また、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。
■大門
根來一山の総門で嘉永3年(1850年)に再建されたもので、左右に仁王像を配し、この寺にふさわしい大門です。
上層には釈迦三尊と十六羅漢像が安置されています。
高さ16.88m 横幅17.63m 奥行6m
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現在 根來寺は新義真言宗の総本山として、興教大師の御廟を守り続けております。葛城連峰の端に、広い境内を有し、国宝に指定される日本最大の木造の『大毘廬遮那法界体性塔』(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)通称「大塔」のほか、宗祖 覚鑁上人独自の教学をあらわす、大伝法堂には重要文化財の本尊大日如来(だいにちにょらい)・金剛サッタ(こんごうさった)・尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)、史蹟・根來寺境内は中世の佇まいを残し四季折々桜・青葉・紅葉が変化に富み多くの参拝者の目を楽しませています。  ー根来寺HPよりー引用
■大門の仁王像
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※秀吉の根来攻めでその勢力は壊滅しましたが、そのごいろいろな変遷を経て現状に回復?しました。その辺りの経緯とか・・を詳しく知りたかったのですが、今回はなにぶん時間がなく各所を回るだけで精一杯(まだ沢山みのがしました)。できればきかいをつくりさいほうしたいとおもいますが・・。桜の木が沢山ありましたので、桜の季節が良いのですが・・・。 写真クリックで大きくなります(^o^)

by barakan1 | 2016-03-08 15:49 | 神社仏閣探訪

岩出市~紀の川市神社仏閣探訪(2016-03-03)①コース概要・・・

岩出市~紀の川神社仏閣探訪。
久しぶり(3年ぶり?)の神社仏閣の探訪となった。天気が良くて気持よく回れたが・・。景色的には桜のシーズンにはちょっと早く、枯れ葉や枯れ草の色の目立つ探訪でした。(桜の季節くらいからの探訪は絶好だったろうなぁ)
写真は葛城高天原付近の県道30号から見た「畝傍山~飛鳥遠望」です。写真クリックで大きくなります(^o^)
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※今回は金剛葛城山の裏側に沿う形で根来まで走りました。
コース概要
10時自宅発~葛城御所周りで、紀の川市(根来寺へ)~紀ノ國国分寺跡~西国分寺後~荒田神社~山崎神社~力待神社(此処へは道がわからず結局この日は断念)~和歌山インター~18時自宅着。160㌔。
■地図

by barakan1 | 2016-03-04 17:06 | 神社仏閣探訪

天橋立~和田山・竹田城跡探訪(2015-07-26~27)・・・③

元伊勢 籠(この)神社     京都府宮津市字大垣430
籠神社(このじんじゃ)は、京都府・宮津市にある神社。『延喜式神名帳』にある「篭神社(丹後国・与謝郡)」に比定される式内社(名神大社)。丹後国一宮で、近代社格は国弊中社、現在は神社本庁の別表神社。
●一の鳥居(入口)
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元伊勢の一社であり、「元伊勢籠神社」とも称する。国宝『籠名神社祝部氏係図』『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』、いわゆる「海部氏系図」で有名であり、現在まで海部氏が神職を担当している。
★主祭神は 彦火明命(ひこほあかりのみこと)。
天火明命(アメノホアカリ)、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命(ニギハヤヒ)というとする。海部氏の祖神。アメノホアカリは、ニニギの兄であり、やはり  同じく天孫。ただし、古事記では尾張国造の祖とある。
●参道(荷の鳥居は)
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★相殿神は、豊受大神(とようけのおおかみ=トヨウケビメノカミ)、天照大神(あまてらすおおかみ=アマテラス)、 海  神(わたつみのかみ=ワタツミ三神<ソコツワタツミノカミ、ナカツワタツミノカ        ミ、ウハツワタツミノカミ>、海部氏の氏神)、天水分神(あめのみくまりのかみ=アメノミクマリノカミ)。
●手水舎                 ●由緒書
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社伝によれば、豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮・真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮・吉佐宮・与謝宮)」と呼ばれ、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるという。
●二の鳥居・拝殿
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白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊(オホリ=山幸彦)を祀ったという。
●鳥居前 重文狛犬
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養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。 ーぶっちゃけ古事記ーより
●社殿正面より
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由緒
 崇神天皇の時代、天照大神が笠縫邑(かさぬいむら)という場所から与佐宮(よさのみや)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。その4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ追ったため、当社を「元伊勢」というようになったという。そして、養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めたことに今の当社が始まる。そして、真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とされ、後に海神・天水分神が配祀されたという。また、御祭神が籠に乗って雪の中に現れたことから「籠宮」という社名になったという伝承がある。
※※籠神社の社家となる海部(あまべ)氏の系図は日本最古の系図として国宝に指定されている。また、この他にも、最古の伝世鏡など、貴重な社宝を多く収蔵していることでも有名。 ー神社人ーより抜粋
●拝殿・本殿全景
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※※丹後国分寺より東に少し走ったところに鎮座。到着が16時半。駐車場閉門が17時という事で見学と写真撮影に走り回り、ほんの触りだけのお参りとなりました。(いつか、真名井神社は是非お参りしたいです)。その後、急いで夕日が浦に向かい、約束の18時夕食に何とか間に合いました。★写真クリックで大きくなります(^_^)v
by barakan1 | 2015-07-30 21:13 | 神社仏閣探訪

天橋立~和田山・竹田城探訪(2015-07-26~27)・・・②

丹後国分寺跡(たんごこくぶんじあと)    京都府宮津市国分
●丹後郷土資料館          ●国分寺跡看板に立つ
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●案内板より 史跡 丹彼国分寺跡
天平13年(741)3月、聖武天皇は詔して天下諸国に僧寺、尼寺を造らせ、それぞれ金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺とされた。これが全国一斉に行なわれたかどうか疑わしいか、おそらく地方諸国の経済制度の整備と併行して、逐次建立されたものであろう。
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 この一帯は「丹後国分寺跡」として、昭和5年10月史跡に指定され、昭和38年買上げ整地して保存されることとなった。指定地内には、中門の礎石2個、金堂の礎石34個、塔の礎石16個か現存しているが、創建当時のものではない。創建年代は明らかでないが、出土しだ古瓦からみて、奈良時代末頃であろう。その後幾度かの興亡を経て、建武元年(1334年)に金堂が再興され、また室町の禅僧雪舟筆「天橋立図」に描かれた伽藍は、天文11年(1543年)兵火焼失前を偲ばせる。現存の礎石群はこの絵の配置と一致している。未調査のため創建時の寺域や伽藍配置は明かでない。
昭和48年3月 京都府教育委員会
丹後国分寺の主な歴史資料  『宮津市史』
●国分寺跡全景
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諸国国分寺・尼寺の建立
奈良時代の前半から中ごろにかけては、相次ぐ政権闘争や疫病の流行などの社会不安が相次いだ。天平元年(七二九)年にいわゆる長屋王の変をおこし権力を掌握した藤原四氏は、天平九年に疫病のため相次いで病死する。さらにその三年後の天平十二年には、九州の大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしている。時の聖武天皇は同年以降、平城京から山背の恭仁宮(加茂町)、近江の紫香楽宮(滋賀県信楽町)、摂津の難波宮(大阪市)へと相次いで遷都を断行し、ふたたび天平十七年に平城京へ戻ってきている。この聖武天皇の行為は、相次ぐ社会不安のなかでこれを断ちきるための施策であったと考えられるが、一方で仏法の加護を得てこれらを解消しようともした。その施策のひとつが、天平十三年に下された、いわゆる「国分寺建立の詔」である。この詔には、国ごとに金光明最勝王経一部を安置した七重塔一基を作り、僧寺を「金光明四天王護国寺し、尼寺を「法華滅罪寺」とすること、また造塔は国のもっとも良き箇所になすこと(必撰好所)、などが述べられている。今日ではこの詔により各地に築かれた寺院を「国分寺」、「国分尼寺」と呼んでいる。つまり平城京の東大寺を総国分寺として全国六○余国に国分寺と国分尼寺が築かれることになるのである。
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 丹後国は、和銅六年(七一三)、丹波国より加佐・与謝・丹波(現在の中郡)、竹野、熊野の五郡を割き成立した。丹後国設置以後、国の政庁である国府の諸施設は、丹後における旧来の有力者の本拠地である、野田川中流域(加悦町付近)や竹野川中流域(峰山町付近)に築かれることはなく、特定の政治的意志によるものか、天橋立を見おろすことができる阿蘇海北西岸の台地、すなわち岩滝町男山付近あるいは宮津市府中地区に漸次的に建設されていったのではないかと考えられている。一般的には国分寺・国分尼寺は国府所在地およびその隣接地に造営されるが、丹後国分寺もまたその原則に従い、国分の台地上に築かれたのであろう。阿蘇海・天橋立を見おろすこの地は、まさに聖武天皇の詔にある「必撰好所」の地にふさわしい。
 …
府中地域は、背後に標高五四六メートルの成相山を抱え、阿蘇海までの狭小な扇状地形を流れる短い河川は、たび重なる氾濫と山崩れをおこしている。したがって当地では、集落は土石流に強い台地上に集中することになる。このような地形的制約により、この地に諸国に比して大きな国分寺伽藍を築くことは困難ではなかったかと考えられる。いずれにしても謎の多い丹後国分寺の実態を明らかにするためには、中心伽藍が所在するであろう史跡地内の発掘調査が必要であろう。ー丹後の地名地理・歴史資料集ー丹後国分寺より抜粋

※※時間がないなか、丹後郷土資料館の見学は諦め、国分寺跡の写真だけ急ぎ撮り、籠神社に向かいました(本当に残念でした) 写真クリックで大きくなります(^_^)v
by barakan1 | 2015-07-30 21:09 | 神社仏閣探訪

湯浅大宮 顯國(けんこく)神社探訪 (2015-05-26)

湯浅大宮 顯國(けんこく)神社  〒643-0004 有田郡湯浅町大字湯浅1914番地
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★★祭神
大己貴命、須佐男命、櫛名田姫命、建御名方命、沼川姫命
★配祀神 
事代主命、豊玉彦命、豊玉姫命、大山祇命、天照皇大神、豊受大神、蛭子神、水波能女神、宇賀魂命、伊弉諾尊、伊弉册尊、金山彦命、菅原道真、素免神、粂崎王子神、住吉神、少名彦命、三筒男神、国常立尊、市杵島姫命
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★境内社 
若恵比須神社、神明神社、稲荷神社、若宮神社
★飛地神 
辨財天神社、北恵比須神社、南恵比須神社、若宮神社
●境内案内板
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■由来
延暦20(801)年10月、坂上田村磨が紀伊國有田郡霧崎菖蒲の里に到って三神を崇敬し、正殿を造営して大國主大明神と称して祀ったのが当神社の創建である。
●外より拝殿・境内をみる
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その後、土豪湯浅権守藤原宗重が神々に対する尊信の念が厚かったことから、天養元(1144)年10月、湯浅村に社地を定めてこの森へ神殿を遷して顯國明神と改称した。
宗重は社地祭祈料として田園を寄進するとともに湯浅城鎮護の神社、近郷村の総鎮守大社と仰ぎ奉った。
社城・社殿ともに郡内でも宏壮であることから通称「大宮さん」と呼ばれた。
●拝殿・本殿
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寛文8(1668)年12月、紀州徳川家初代藩主頼宣より顯國大明神の社号を授かり、藩儒李梅溪に命じて華表の扁額を書かしめた。
その後、江戸へ発着毎に参詣する等厚く崇敬され、これが先規となり廃藩の際まで歴代藩主より鄭重に取り扱われた。
社記によると、延宝4(1676)年には第二代光貞(清溪院)、安永5(1776)年には第九代治貞(香巌院)、寛政6(1794)年には第十代治宝(舜恭院)、寛政11(1799)年と享和3(1803)年には当時隠居中であった第八代重倫(観自在院)が参拝している。
●境内社
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明治15年11月、有栖川宮幟仁親王殿下の御筆である社名の額が奉納されている。
明治16年4月、村社に列し、同40年6月神饌幣帛料供進神社に指定された。
昔、田中久郎助という者が馬を社前に集めて流鏑馬をしたのが、馬寄せの始めであると伝えられている。
明治の合祀令より当神社に祀られた神社は、若宮神社、若恵比須神社、神明神社、稲荷神社、諏訪神社、久米崎神社、天神社、金比羅神社、疱瘡神社、住吉神社、妙顯神社がある。
●境内社 (若恵比須神社、神明神社、稲荷神社、若宮神社)
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当神社の鎮守の森は、昔から「一夜の森」や「暁の楓」と呼ばれ、『南紀湯浅誌』の湯浅古跡に名を載せ、古くから神社鎮座の森なりと言い伝えられており、平安時代から鎌倉時代にかけて古熊野往還に沿っていたとされている。(和歌山県神社庁HPより)
※※久しぶりの探訪記です。書き方がを忘れ、チョッと時間がかかりました。(>_<)
5-26、湯浅玉市丸にイサギ釣りに来たおり、帰路に立寄り御参りしました。湯浅に来る度に気にはなっていましたがヤット、訪ねることが出来ました。>(^_^)v
by barakan1 | 2015-07-05 15:55 | 神社仏閣探訪