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天橋立~和田山・竹田城探訪(2015-07-26~27)・・・④

竹田城跡   兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山169番地
●ー竹田城跡の画像検索結果ーより引用
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竹田城跡は、山城遺跡として全国でもまれな完存する遺構であり、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれています。
●竹田城跡案内板
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秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、但馬地方の風物詩となっています。この雲海に包まれた姿や竹田城から見下ろす風景は、まさに天空に浮かぶ城を思わせ、いつの間にか「天空の城」・「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになりました。この幻想的な風景を一目見ようとたくさんの人々が訪れます。朝来市HP-より
●竹田城跡についての説明版
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●大手門上り口
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概要
縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。国の史跡に指定されている。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城や日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。
●大手門より竹田の町を見る
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東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
●三の丸横より
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竹田城   別名 天空の城、虎臥城、安井ノ城
城郭構造  梯郭式山城
天守構造  不明(天守台有り)
築城主  山名宗全(伝承)
築城年   1431年(永享3年)(伝承)
主な改修者 羽柴秀長、赤松広秀(斎村政広)
主な城主  太田垣氏、羽柴秀長、赤松広秀
廃城年  1600年(慶長5年)
遺構  石垣、堀、井戸など
指定文化財 国の指定史跡
●三の丸付近より南千畳方向をみる
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●南千畳付近より三の丸方向を見る(反対側より観る)
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□雲海
時期は、秋から冬にかけての日の出前から午前8時頃の間。特に9月から11月の間には発生しやすい。
城跡からの眺めの他、立雲峡(城の南東)や藤和峠(城の北西)から雲海に浮かぶ城跡を眺める事も出来る。
●南千畳手前で説明を聞く観光客
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※※★2日目10時ホテル出発、お土産を買って、大智君は電車で。豊岡で待ち合わせ、合流後312号線を下って朝来和田山の竹田城跡へ。城跡見学の後、食事をして17時過ぎに出発。大智君出発後直ぐに寝てしまったのでユックリ走れました。自宅到着19時過ぎ。走行距離440㌔でした。 ★写真クリックで大きくなります(^_^)v
by barakan1 | 2015-07-30 21:14 | 旅日記

天橋立~和田山・竹田城探訪(2015-07-26~27)・・・①

■天橋立へ
娘夫婦より、夕日ヶ浦温泉へのお誘いがあり、喜んでお受けしました。夕方にホテルで落合う約束なので、ついでと言えば何ですが・・・、行って見たかった天橋立と翌日は朝来市和田山の竹田城跡を観る予定です。
■1日目コース
12時に自宅を出発~阪神高速・中国自動車道・舞鶴若狭自動車道を通り、橋立到着15時でした。飛龍観モノレールで展望台へ。天気のいいこともあり、その景色はまさに絶景!!、日本三景と言われるのも分かります。久しぶりに素晴らしい景色を見て妻も大変感激していました。
前日の調べで、近くに元伊勢籠神社と丹後国分寺跡があることが分かりましたので、時間はありませんが、その雰囲気だけでもと駆け足でしたが回りました(ほんの1時間程の探訪で残念でした)。
ホテルに18時丁度に到着。一っ風呂浴びて早速夕食です。
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丁度夕日がまわりを真っ赤に染めながら、地平線に沈む景色も見れ(太陽は真ん丸ではなく、ヒシャゲたお饅頭をニケ重ねたように見えました)大満足でした。



●展望台へのモノレール乗り場
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■日本三景 天橋立
天橋立の成り立ちについて、こんな言い伝えがあります。
古風土記によると、男神イザナギのみこと命が、イザナミの命の住む久志備の浜の北にある真名井原に、 天上から通うために梯子をかけました。イザナギの命はこの梯子を天浮橋と名づけ、天上と地上を往来しました。
●モノレールとリフトからの展望
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●飛龍観の解説版
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ある時、地上におりたイザナギの命がうっかり一夜をすごしてしまったうちに、天浮橋は地上に倒れてしまいました。 天浮橋は天橋立となり、天上の神々と地上の人間を結ぶ梯子はなくなってしまったのです。 しかしその後、神と人の絆はかえって強くなり、神仏を求めて白砂青松の不思議の道を訪ねる人があとを絶たなくなりました。
●股覗きからの展望
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全長3.6km、幅20~170mの砂嘴。砂地には約8000本の松が茂り、その姿はあたかも天に舞う架け橋のよう。
公園内には昭和26年に来訪された昭和天皇の句碑、与謝野寛・晶子夫妻の歌碑など史跡が点在しており、 先人たちが天橋立に馳せた思いに触れることができます。 人々の心を潤す神の贈り物として、天橋立はその姿を今に保ち続けているのです。

a0016431_15464364.jpg天橋立は、方向により見え方が変わることで知られています。
眺望にはそれぞれ名前がついており、斜め一文字、飛龍観、一字観、雪舟観が天橋立の四大観と呼ばれています。四大観のポイントは下の写真で示した場所になります。 HP-日本三景-より



■天橋立を詠んだ歌
神の代に神の通いし道なれや雲井に続く天橋立     古歌
橋立の松の下なる磯清水都なりせは君も汲見ん     和泉式部

大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天橋立  小式部内侍
   小倉百人一首第60首 小式部内侍こしきぶのないし) 金葉集
※解説ーこれは、「大江山を越えて、近くの生野(京都府亀岡市内の古地名)へと向かう道のりですら行ったことがないので、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味である。歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に、四条中納言(藤原定頼)が「丹後のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などと意地の悪い質問をしたのに対し、その場で詠んだ歌とされている。
当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言は小式部内侍をからかったのだが、小式部内侍は見事な歌で答えたのだった。これに対し四条中納言は、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻いたという。ーウィキペディアーより
●天橋立全景
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■探訪地図

by barakan1 | 2015-07-30 21:06 | 旅日記

岩内1号墳(2013-06-23)古墳⑥・・・

岩内1号墳   御坊市岩内845-1
●案内板
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岩内1号墳は、7世紀中頃以降に造営された県内でも数少ない終末期古墳の一つである。発掘調査の結果、木棺に塗られた漆の破片や銀線蛭巻太刀(ギンセンヒルマキノタチ)、六花形の鉄製棺飾金具などが発見され、版築(粘土を突き固める)という技法で墳丘の盛土が造営されていることがわかった。
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岩内1号墳の造りや副葬品は飛鳥の貴人を思わせる格式高い内容で被葬者の有力な候補者として有間皇子があげられている。
有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
万葉集巻02-0141
磐代の浜松が枝えを引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む
万葉集巻02-0142)
家にあれば笥(け)に盛る飯ひを草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
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藤白坂で斬首された皇子の側近、塩屋連[制※]魚(シオヤノムラジノコノシロ)はこの地域の出身で、塩屋連の一族が皇子の身分にふさわしい墓を造ったのではないかといわれている。
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ー和歌山観光情報ーより
有馬皇子の墓(椿の地蔵ー藤白坂)
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by barakan1 | 2013-06-28 19:16 | 旅日記

和歌山(由良町・美浜町・御坊市)探訪4(2013-06-23)①コース概要・・・

和歌山(由良町・美浜町・御坊市)探訪4 (2013-06-23)
●コース概要
白崎青少年の家前で見たタヌキの子供a0016431_13272280.jpg




10;15自宅発~興国寺~衣奈八幡神社~白崎~松原王子社~岩内1号墳~塩屋王子社~仮眠所着17:30。160㌔走行距離。





■探訪地図

by barakan1 | 2013-06-26 13:46 | 旅日記

和歌山(有田市~御坊市)探訪3(2013-06-03)①コース概要

■有田市~御坊市探訪コース
●立神社境内 アジサイ
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10時30分自宅発~下津粟嶋神社本宮阯~立神社~須佐神社~国津神社~施無畏寺~広八幡神社~三穂の岩屋~野島~宿泊所18:00着。








■コース地図

by barakan1 | 2013-06-14 12:00 | 旅日記

蕪坂塔下王子社阯(2013-05-23)万葉故地・熊野古道⑥・・・

●拝の峠より蕪坂塔下王子社へ
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(小畑)万葉歌碑より、(拝の峠)案内板の先の鉄塔を右にみて下って行くと急に開けて休憩所がある。また道沿いに小祠がある。蕪坂搭下王子跡と云われている。
「蕪坂塔下王子」
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「蕪坂塔下(かぶらざかとうげ)王子」跡の案内板によれば、熊野御幸の盛んな頃、蕪坂には峠と南麗の二か所に王子社がありました。藤原定家の日記では、峠の王子社は「カフラサカノタウ下王子」と記されており、藤原頼資(よりすけ)の日記では「蕪坂王子」と記されています。南麗の王子社は「山口王子」或いは「宮原王子」です。
ところが『紀伊続風土記』では峠に蕪坂王子・塔下王子の二社があったと記しています。これは藤原定家の日記を読み間違いしたものと思われています。
『紀伊国名所図会』で、「蕪坂王子社、蕪坂の上にあり」と載せられているのが当王子社のことです。と説明されています。
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※蕪坂は、下津町沓掛から宮原町道村へ越す坂で、熊野参詣道のうちでも古くから陸路交通の要路であったようです。なお、蕪坂王子社は明治41年に山口王子社と共に宮原神社に合祀されたそうです。
『紀伊国名所図会』には、 「鏑矢もて鹿を射ちし坂なれば蕪坂と名付しにや、峠に茶店あり」と鏑が蕪に変わったものと記されています。
万葉集
巻09-1678 
紀の国の昔弓雄(さつを)の響矢(かぶら)もち鹿(か)取り靡けし坂の上(へ)にそある
●太刀の宮付近熊野古道より、宮原方向を展望する
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by barakan1 | 2013-05-31 16:00 | 旅日記

下津町大崎(神の小浜)(2013-05-08)万葉故地②・・・

下津町大崎(神の小浜)
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天平11年(739) 3月28日、従四位下左大弁だった石上乙麻呂が、土佐に配流されるという事件がおきた。乙麻呂は、左大臣石上麻呂の3男という名門の出で、すでに丹波守も経て、若年(30才)ながら太政官の中に位置を占め、才能もあり、性格も温和で、風貌も秀でていた。
理由は、未亡人との恋! 未亡人は、久米若売(わかめ)。2年前に夫をなくして、目下服喪中。若売の前夫は、藤原宇合で、参議、式部卿兼太宰帥、正三位という有名人。宇合との間に、 7才の百川がいる身で、下総に配流になった。若売は、天平12年 6月19日に赦免となり、乙麻呂は、天平13年 9月 8日に赦免・召還となった。
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石上乙麿(いそのかみのおとまろ)の卿の、土佐の国に配(はなた)えし時の歌三首、また短歌
万葉集
巻06-1019
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は 手弱女(たわやめ)の 惑(さど)ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣(しし)じもの 弓矢囲(かく)みて 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 天ざかる 夷辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土の山ゆ 帰り来ぬかも
巻06-1020、(巻06-1021)
大王の 命畏み さし並の 国に出でます はしきやし 我が背の君を
かけまくも 忌々(ゆゆ)し畏し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとかみ) 船の舳(へ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 依りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風に遇はせず 障(つつ)みなく み病あらず 速(すむや)けく 帰したまはね もとの国辺に

     右の二首は、石上の卿の妻(め)がよめる。
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巻06-1022 
父君に 吾(あれ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(おもとじ)に 吾(あれ)は愛子ぞ 参上(まゐのぼ)り 八十氏人(やそうぢひと)の 手向する 畏(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あれ)はぞ退(まか)る 遠き土佐道を
反し歌一首
巻06-1023 
大崎の神の小浜(をはま)は狭けども百船人(ももふなひと)も過ぐと言はなくに
     右の二首は、石上の卿のよめる。       
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◇天平11年(739)3月、石上乙麻呂が 藤原宇合(うまかい)の未亡人久米若売(わかめ)との恋愛事件で土佐に流されるとき、
●ここ大崎の神の小浜から船出した。
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◆下津町大崎・つり公園入口に、歌碑が立つ。
万葉集
詠人不詳
巻12-3072
大崎の荒磯の渡(わたり)延ふ葛(くず)の行方もなくや恋ひ渡りなむ
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『古義名処考』によると「紀伊国の船、大方この港につく。今も土佐の船の往来に常に泊まる所なり。古も土佐にかよふには、かならず此の大崎を通りしならむ」と記されている。(「下津町万葉歌碑めぐり」より) 現在,道路が整備され大崎に行くには便利になりましたが今から 40 年頃前まで陸の孤島といわれ、通勤や通学のための連絡船(ぽんぽん船)が大崎港から下津港に就航していましたそうです。

◆※平城京から土佐へ流される時、どのようなコースをたどったのでしょうか。藤原京の側を通り、紀ノ川へ出、真土山を通過し、藤白の御坂を超え、橋本から西へ下ったのか?有田の方へ回り込み大崎へ入ったのか?知りませんが・・・。いずれにせよ大変な旅であったろうことは想像出来ます。(車で山越えをするのにも大変な苦労が入りましたから・・)
●こんな山道を歩いて行ったのでしょう!
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※※神の小浜も近代化の波に飲まれています。写真では出来るだけカットしていますが、コンビナートの石油タンクが彼方此方にあります。こんな所までと寂しくなりますが、これも現代の宿命というやつでしょうか!
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by barakan1 | 2013-05-29 15:21 | 旅日記

海南・有田・御坊市探訪(2013-05-08、22)①コース概要・・・

コース概要(2013-05-08、22)
下津町大崎(港)~粟嶋神社~長保寺~県道165号小畑~蕪坂・拝の峠~蕪坂王子社~得生寺~糸我王子社~日御碕~美浜町三尾~御崎神社~三穂の岩屋
●蕪坂・拝の峠から見た、長保寺~下津港の景色
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二日間の探訪記録をまとめてアップしています。今後も追加してゆくつもりです。
■コース地図

by barakan1 | 2013-05-27 17:01 | 旅日記

八尾市探訪ー心合寺山(しおんじやま)古墳~都夫久美神社~玉祖神社(2013-04-20)④・・・終

■玉祖(タマオヤ)神社(再訪) 式内社  櫛明玉命  大阪府八尾市神立5丁目
●神社正面(西より東)を見る (神鶏の像と鶏舎が新しく作られていた)
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祭神 櫛明玉命(クシアカルタマ)
社頭にある案内板(八尾市教育委員会)には「式内社で玉祖明神とか、高安明神ともいう。高安11カ村の氏神で、和銅3年(710)周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命(クシアカルタマ)である。この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神を祀ったものであろう」とある。
●正面参道より、西(大阪平野を見る)と参道脇神木
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クシアカルタマ命とは、玉祖命(タマオヤ)・天明玉命(アメノアカルタマ)・玉屋命(タマノヤ)・豊玉命(トヨタマ)・羽明玉命(ハアカルタマ)など多くの異名をもつ神で、記紀神話・天岩屋戸段では、アマテラスを岩戸から出現させるために御幣に掛けた玉(三種の神器の一)を製作した神として、天孫降臨段では、天孫・ホノニニギの天降りに従った五伴緒(イツトモノオ)の一として出てくる。(古事記では玉祖神、その他の名は日本書紀)
●神鶏(長鳴鶏)
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※祭祀氏族・玉作部とは、
新撰姓氏禄に「右京神別(天神) 忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也 天孫・ホノニニギ命の葦原中国への降臨の時、五氏神部として皇孫に従って天降った。是時玉璧を造って神弊と為した。故に玉祖連と号し、亦玉作連ともいう」。
●境内拝殿
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(意訳)「右京神別(天神) 玉祖宿禰 高牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也」「河内国神別(天神) 玉祖宿禰 天高魂神十三世孫建荒木命之後也」
とある氏族で、いずれも玉作りに携わる伴部(トモノミヤツコ)という。
※大阪市内に玉造の地名があるように、古来、河内・摂津の地には玉作りを業とする氏族が多く居住していたといわれ、当社西方から古代管玉の半製品など玉作関連の遺物が出土していることから、その製造にかかわった玉造の一族が、その祖神を祀ったものであろうという。
●本殿と拝殿からの様子
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※創建由緒
社頭の案内にいう、「和銅3年周防国から分霊を勧請したもの・・・」とは、“河内国高安郡玉祖大明神縁起”や“恩智大明神縁起(写本-延宝4年・1676)”にいう、
「元明天皇・和銅3年、周防国一の宮の玉祖神社(現山口県防府市)の神(玉祖命)がやってきて摂津・住吉浦に上陸したとき、住吉明神から、恩智の神が広大な領地を持っているので、鎮座の地を分けてもらうようにと勧められた。それに従ったところ、恩智神は、自分が領していた高安郡七郷のうち、六郷をさいて玉祖神に与えた」(大意)との伝承を指す。
●境内末社群
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ただ古代の高安郡は、倭名類聚鈔(937)では4郷とあるのに、縁起で七郷とするのはおかしいこと、縁起にいうように、七郷のうち六郷を領する高安郡の代表的神社であれば、恩智神社と同じ名神大社であってもおかしくないのに、小社であることなど、不自然な記述が多いことから、当社が高安郡の総氏神的存在になった中世の頃、その権威を高めるために、当社の創建を周防国の玉祖神社、摂津国の住吉大社、河内国の恩智神社と結びつけ、且つ神社の創建を、当時としては一番古い和銅3年として、創作されたものではないかという。(式内社調査報告・1979)
当社創建は、和銅3年周防国からの勧請というより、何時の頃かは不詳ながら(10世紀初頭以前とはいえる)、古くから当地に住んでいた玉造一族がその祖神を祀った、というのが順当であろう。
◎末社群
●水神社       ●菅原神社-稲荷神社-八幡神社    ●山口神社
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●蛭子神-吉野権現-住吉神社-恩智神社-八王子社  ●天神社  ●津山神社
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左の相殿5社は、いずれも創建縁起にかかわる神で、天長5年(828・平安前期)に勧 請されたという。
「戸原のトップページ」より抜粋引用       玉祖神社は再訪です。(2006-02)
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by barakan1 | 2013-04-25 16:48 | 旅日記

八尾市探訪ー心合寺山(しおんじやま)古墳~都夫久美神社~玉祖神社(2013-04-20)③・・・

都夫久美(ツブクミ)神社  大阪府八尾市水越8丁目
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祭神 宇摩氏摩治命
社頭に掲げる案内(八尾市教育委員会)には、「古代の大豪族物部氏の祖神・ウマシマジを祭神とする。ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連に由来する」とある。
●境内社号標と碑
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※積組連(ツブクミ ムラジ)とは、
新撰姓氏禄(815)に、「河内国神別(天神)積組造 饒速日神子干摩志摩治命之後也」とあるように、八尾の辺りを本拠地とした物部氏に連なる氏族といわれ、その積組連が祖神・ウマシマジを祀った社と推測されるが、詳細不明。
ただ、祭神不詳とする史料もあり(神社覈録-1870)、また、明治5年(1872)以降、軻遇突智命(カグツチ)と大歳神を合祀して3座を祀るともいう(大阪府誌・1903)が、今はウマシマジ一座のみとなっている。
◆創建由緒
当社の創建年代は不明だが、神階授与の記録もなく、創建後の経緯も不明。古い伝統をもつと推測される神社だが、物部氏本宗の衰亡後は積組連の勢力も振るわず、当社も衰微していったらしい。
●社殿
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中世から近世にかけて、近くの玉祖神社(タマオヤ)が勢力を広げて高安の地全域の氏神へと化していくなか、最も近くにあった当社もその勢力下に組み入れられ、玉祖神社・三所大明神の一として“香森大明神(女神 中ノ森とも云ふ)”の名で祀られていたという(玉祖大明神縁起--三所大明神:玉祖大明神・香森大明神・鴨森大明神(鴨神社)をいう)。
この香森大明神とは、当社が高安郡水越村中ノ森(中社-ナカノモリとも記す)にあったことから、字名・中ノ森に香森の佳字を当てたものだろう。
「戸原のトップページ」より抜粋引用
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by barakan1 | 2013-04-24 12:32 | 旅日記