四天王寺 願成就宮(守屋祠)探訪(2009-12-21)・・・

四天王寺 願成就宮(守屋祠)  大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
祭神
物部守屋大連、弓削小連、中臣勝海連
●聖霊院内太子堂より、五重塔・金堂等をみる
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注釈
物部氏蘇我氏の崇仏論争は両氏の権力争いでもあった。7世紀前半、物部氏は滅びるのである。 300年以上前の長随彦敗北に続く物部の東国落ちとなり、物部氏の東国での歴史が二重になるようだ。
 四天王寺は元々大阪城付近の玉造辺りにあったと『上宮聖徳太子伝補闕記』や『聖徳太子伝暦』などの諸書の多くに記載がある。守屋の難波の宅がどこであったかによるようだ。玉造は低いが丘になっているが、現在の四天王寺は平地にあり、守屋が宅を構えるのは玉造の方がいいようだ。更に、玉造は難波津に近く、物部系の船長格である阿刀連薬が住んでいたようであり、海人系の物部としては四天王寺付近よりは機動的なようだ。原四天王寺の北側に元々の磐船神社(饒速日命の降臨地)があったとの事である。
 現在の四天王寺が、伝えられている創建時の模様と殆ど変わりがないとの事で、初めからこの地に建立されたとも考えられている。
●願成就宮(守屋祠)
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東端の絵堂の横に守屋祠が鎮座している。願成就宮と呼んでいる。聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀ったと伝えられている。
 『摂津名所図会』には、「太子堂の後ろにあり。今参詣の者、守屋の名をにくむや、礫を投げて祠を破壊す。寺僧これを傷んで熊野権現と表をうつ。」とある。 山中寺にも守屋祠の伝えが残っている。
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四天王寺西門に鳥居がある。西方浄土から俗界を経て聖域である四天王寺境内への結界を現すものとされているが、物部氏関係の神社地に四天王寺を建立したのかも知れない。 全ての寺院に鳥居があるわけではない。生駒の長弓寺と伊弉諾神社のように、後世寺院の勢いが増し、神社が寺の鎮守(地主神)になっていった可能性もある。 長弓寺や四天王寺などは物部氏の神社跡かもしれない。
 この四天王寺の旧地名は荒墓邑と言った。山号は「荒陵山」である。アラハカであり、謎の神アラハバキに通じる。ー神南備にようこそーより抜粋

◆四天王寺縁起
四天王寺 願成就宮(守屋祠)探訪(2009-12-21)・・・_a0016431_2028684.gif新たに伝来した仏教を支持する蘇我氏と日本古来の宗教を推す物部氏の 仏神代理戦争において、聖徳太子は仏教の守護神、四天王に祈願して戦いに勝利する。戦乱が収まったあと、聖徳太子は摂津の玉造の岸の上に堂宇を建立して 四天王の像を安置、その後推古天皇の元年(593)、現在の地に移され、荒陵山四天王寺と名づけられた。 難波の荒陵の地に国家鎮護を願い、難波の港に面して国威を誇示するため建立した我が国最初の官寺である。
伽藍堂塔は中門、五重塔、金堂、講堂を南北に一直線に並べ、それを回廊が囲む四天王寺式伽藍配置とよばれる。
※聖霊院太子殿には上がれましたが、守屋祠には近づけませんでした。絵堂が開かれる日(毎月/22)だったら、絵堂から近づけたのかも??。
by barakan1 | 2010-01-08 20:30 | 旅日記
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