桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)③箸墓古墳・・・

箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)
この古墳墓は「令義解」に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」と書かれていて、当時、既に大規模な古墳だったことが窺える。
●箸墓を北→
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記紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(大神神社の祭神)の妻とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされており、現在は宮内庁が陵墓参考地として管理している。
日本書紀には「昼は人が造り、夜は神が造った」との記述も残る。崇神天皇十年の条に、倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓(はしのみはか)とよんだ。ところがこの墓は昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだという。
●箸墓より二上山を見る                ●箸墓付近写真
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この大坂山とは現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と考えられている。この記述は、果たして記録としてどの程度の信頼性があるかは疑問だが,古墳築造の様子が記述されているまれなケースとしても注目される。またこの古墳は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であると言う、いわゆる邪馬台国近畿説でも有名である。
●箸墓西北→
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畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのはここ箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代の違いから考古学的には否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。卑弥呼が死んだのは3世紀前半( 248年)であるから」、50年から100年のズレがあったわけである。ところが近年、平成7年2月に奈良県立橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表し、また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表したことで、がぜん、邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わせたのである。
●南→
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畿内説は、3世紀には日本は九州から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配は西日本各地に及んでいた、と主張した。橿原考古学研究所附属博物館の館長河上邦彦氏は、「前方後円墳は3世紀の大和古墳群(箸中古墳群、柳本古墳群を含む)で発生する。「径百余歩=約145m」もある「卑弥呼の墓」は、発生期の前方後円墳に相違ないから、邪馬台国はやはりここにあったのだろう。」という。
倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちばか)
孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲姫が御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻となったとする、有名な神婚伝承を伝える。倭迹迹日百襲姫は箸で下腹部を突いて薨じ、大市に葬られたが、人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだとされている。
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崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となった、だがこの神は夜にばかり通ってきて姿を見せないので姫はまだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さいと願った、神は「明朝お前の櫛箱の中に入っていようと答えた。姫は朝のくるのを待って櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだすと神は人の姿に戻り「よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれた」といって三輪山に帰ってしまった、姫はたいへん後悔しそのはずみに箸で陰処(ほと)を突いて死んでしまった。そこで人々はその墓を箸の墓と呼んだ。   
ー邪馬台国大研究ーより抜粋
by barakan1 | 2009-11-18 17:35 | 旅日記
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