天王寺区探訪(2009.06.15)③庚申堂~四天王寺・・・

庚申堂(四天王寺)  大阪府大阪市天王寺区堀越町2ー15
縁起
今から1300余年前(飛鳥時代)、我が国に色々の疫病がはやり、四天王寺の民部の郷僧都毫範(ごうはん)が、霊験を得て祈願をしたとき、庚申堂の本尊となった青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が、16歳くらいの童子となり現れ、毫範に除災無病の力を与え、それによって病は去っていったという言い伝えがあり、時は701年(大宝元年)正月7日、庚申の日とされる。
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以来、毫範の感得した青面金剛童子をこの地で祀られたのを開基とする。我が国の庚申の始まりであり、以来庚申を祀ろうとするものは、皆当寺に来て、免許を得、尊天の分身を勧請するのを例としている。ー寺院めぐりーより

四天王寺    大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
山号   荒陵山(あらはかさん)
宗派寺格 和宗総本山
開基   聖徳太子
●庚申街道から南大門を見る               ●南大門
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『日本書紀』に見る創建の経緯 [編集]
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。その草創については『日本書紀』に次のように記されている。
●仁王門・五重塔を見る(南→北)
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用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。
●仁王門・五重塔           ●西重門・金堂・五重塔を見る
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聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)
●極楽門から鳥居                       ●大鳥居
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以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍と呼ばれている。配置」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※四天王寺さんへは歩いて15~20分で行けますので、しょっちゅ行ってます。建物もきれいし広くて気持ちがいい。縁日には露店も沢山出てホントに楽しいです。駐車場には観光バスが沢山来ます。私が遠く奈良や京都の神社仏閣を訪ねるのと同じでしょうね!あまり近いと有難味が少ないからでしょうか!!ね
by barakan1 | 2009-06-18 17:44 | 旅日記
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