大阪市(阿倍野区)探訪(2009・01・08)①西光寺~松長大明神(阿部寺跡)・・・

西光寺   大阪市阿倍野区松崎町2丁目3-44
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本尊 阿弥陀如来
重厚な入母屋造の本堂、鐘楼が目立つ。ホテルや百貨店、飲食ビルの間に時代から取り残されたように、古色蒼然とあります。今となっては貴重な空間である。
歴史 開創年代は不詳。昭和8(1933)年東区博労町四丁目から移転した。
◆阿倍野区の変遷 
阿倍野の名は古代、この地を所領とした大族阿倍氏に因むという説が有力である。6~7世紀、この阿倍氏の氏寺、阿倍寺が開創された。現在の近鉄阿部野橋駅の南、松崎町付近であったと推定される。阿倍寺は四天王寺と同様、主要な堂塔が南北に一直線上に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」であり「阿倍寺千軒坊」と呼ばれるほどの繁栄を見せた。また阿倍王子神社と密接な関係にあった。阿倍寺は阿倍氏の衰退と共に衰え、四天王寺に併合されたという。今、阿倍寺の流れを汲むとされる寺には印山寺、聖天山正円寺がある。
●発掘調査後整地された、阿部寺跡(08-012調査中でしたが、現在は写真の通りです)
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鎌倉時代から室町時代にかけては、当地はしばしば戦場となった。南朝の武将、北畠顕家が戦死したのもこの地である(墓碑が残る)。阿倍野は古代から中世にかけては熊野街道沿いの街として、また近世初頭は堺と大坂をつなぐ交通の要衝として賑わいを見せた。しかし、江戸期以降は近郊の農村地帯にもどった。明治初期には見渡す限り田畑や原野が広がり、狐狸なども棲む寂しい場所だったといわれている。ー寺サイト本山ーより抜粋
阿倍寺跡推定地(松長大明神)
●裏のゴチャゴチャした細道を入った処
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阿倍野区松崎町一帯には「阿倍寺」「東阿倍寺」などの字名が残っており、このあたりを本拠にしていたという阿倍氏の氏寺である阿倍寺跡に推定されている。
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阿倍寺は「阿倍寺千軒」とよばれ広大な伽藍を有していたと伝えられている。第二次世界大戦直後には、建物基壇跡ではないかと言われる小丘が残っていたが、現在ではそれも失われ、寺院の伽藍配置など詳しいことは不明である。
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大阪市(阿倍野区)探訪(2009・01・08)①西光寺~松長大明神(阿部寺跡)・・・_a0016431_17425389.jpg昭和十年(1935)には、松長大明神の付近から塔心礎と考えられる礎石と布目瓦が出土しているほか、道路工事等に伴い、若干の瓦が採集されている。





●松長大明神側から、新発掘現場を見る
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その中には、複弁八葉蓮華紋丸瓦や重狐文の軒平瓦など、白鳳時代に遡るものもある。
礎石は、大阪府有形文化財に指定され、現在西成区の天下茶屋公園内に移設されている。
ー大阪市教育委員会ー案内板
by barakan1 | 2009-01-25 17:48 | 旅日記
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