西国街道探訪Ⅲ(向日市)(08.11.05)②長岡京跡1・・・

長岡京跡
●長岡京全景地図
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長岡宮(跡)
桓武天皇の命により平城京から遷都して造営された。
●宝憧跡(ほうどう)
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遷都については、「続日本紀」には、水陸の交通の便が理由であるとの記述が見えるが、
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*既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
*新京の周辺地域をおさえる、母方のバックボーンたる渡来人勢力との関係
*父の光仁天皇の代から天智系に皇統が遷った事による一新
等の説がある。784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武帝は天武系から天智系の天皇であったことも興味深い。
●長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう)
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「宝憧(ほうどう)は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦にのみ建てられる特別な装飾具です。しかし長岡宮で天皇の即位はありません。そこでこの宝憧跡は朝賀の儀式の際に用いられたものと判断されます。 向日市教育委員会」
桓武天皇略歴
●大極殿跡
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桓武天皇は白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として天平9年(737年)に産まれた。母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続日本紀に記されている。皇后藤原乙牟漏により安殿(のちの平城天皇)、神野(のちの嵯峨天皇)をなし、妃藤原旅子により大伴(のちの淳和天皇)をなす。初名は山部王。
●正面左より
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a0016431_14381853.jpg父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸親王とその母であった皇后井上内親王が突如廃されて宝亀4年(773年)1月2日に立太子。天応元年(781年)4月15日、即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った。
●正面右より
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はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した。また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。しかし晩年にはこのような軍事と造作が百姓を苦しめているとして式家の藤原緒嗣に批判された。文化面では続日本紀の編纂を発案したとされる。最澄と空海が唐から帰国し日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武治下である。
●大極殿・朝堂院模型
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井上内親王と他戸親王の不自然な死、治世のはじめに、皇太子とした弟早良親王を藤原種継暗殺の廉で785年流罪とし配所で死なしめたという暗い面も持ち合わせた。怨霊を恐れ、延暦19年(800年)7月19日、早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by barakan1 | 2008-11-20 14:55 | 旅日記
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