西国街道(山崎~島本~長岡天神)探訪(08.10.02)⑧桜井駅址・・・

■桜井駅址(さくらいえきあと)  大阪府三島郡島本町(旧摂津国)
延元元年(1336)、楠木正成は西国から京へ入ろうとする足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃つため、西へ向かっていました。南朝・後醍醐天皇が打倒しようとしている鎌倉幕府との戦いに、決死の覚悟で臨もうとしていた。
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※桜井駅まで軍を進めた時、楠木正成は十一歳だった子の正行(まさつら)に河内へ帰るように言います。「今度の合戦は天下の安否がかかっていると思うから、汝の顔を見るのはこれが最後かと思う。 正成が討ち死したなら、天下は必ず尊氏の世になると心得よ。しかしながら命を助からんがために多年の忠烈を失って降人となってはならない。一族郎党の一人でも死に残っているなら金剛山の辺りに立て籠もって戦え。 これが汝の第一の孝行である」と遺訓したと伝えられます。「太平記」
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※注
桜井駅の「駅」と言っても、現代の電車の駅ではありません。この時代の「駅(駅家)」とは、主要な街道に30里(約16km)ごとに設けられ、旅に必要な馬などが用意されていた施設のことです。
京都と山陽道をつなぐ道は「西国街道」と呼ばれ、古くから主要幹線道路として使用されてきました。太平記に記されている「桜井駅」については、続日本記に記されている「摂津国嶋上郡大原駅」が相当していると、考えられているそうです。
●乃木希典大将筆の「楠公父子訣別之所」   
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明治天皇御製歌碑
子わかれの松のしつくに袖ぬれて昔をしのぶさくらゐの里

◆◆正行(まさつら)は、父の遺訓を守って足利氏に対抗。11年後の正平2年8月、北朝方の隅田城を攻めこの合戦を皮切りに北朝軍と戦い、1348年正月 足利尊氏の執事 高師直(こうのもろなお)の率いる6万の大軍が四条畷に到着。これに対して正行は、わずか3千騎で決戦を挑み、激戦の末力尽き、弟正時と刺し違えて自刃した。現在、飯盛山の山麓に四条畷神社(同市南野二丁目)があり、正行を主神に正時・正家ら一族二十四人を祀る。楠木正成の「大楠公」という敬称に対して、長子正行は「小楠公」と呼ばれている。
楠正行辞世の歌
かゑらじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる
●旗立て松           ●パークス碑           ●明治天皇御製歌碑 
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◆※明治時代の歌人・国文学者である落合直文(おちあいなおぶみ)作詞の小学唱歌。(この桜井駅の楠木正成・正行父子の別れの場面を歌っています)
青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木下陰(このしたかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
偲ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙か はた露か

・・・・今の若い人はご存じないでしょうが、昔は誰でも知っていた唱歌です。私もなんとか1番はうろ覚えに覚えていますが・・・、この唱歌は6番まであるそうです。
それに驚いたのは桜井駅の場所です。今の今まで、私は桜井と言うから、大和の桜井とばかり思っていました。どこでどう思い違ったのか分かりませんが、まったく、恥ずかしい限りです。間違った記憶が訂正できただけでも、この探訪の価値がありました。
by barakan1 | 2008-10-13 15:02 | 旅日記
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