敏馬(みぬめ)・処女塚(おとめつか)探訪(07.08.08)④東求女塚(ひがしもとめつか)古墳・・・

■東求女塚(ひがしもとめつか)古墳  神戸市東灘区住吉宮町1丁目
●菟原(うなひ)あたりいまのすがた
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(案内板)
東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女古墳とともに『葦屋の菟名負処女』をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、菟名負処女をめぐって争った茅渟壮士の墓だといわれてますが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。現在、墳丘の一部は公園の中に残っていますが、墳丘のほとんどは、土取りによってなくなってしまいました。
●東求女塚古墳公園(西→)   左奥(遊喜幼稚園・前方部)
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昭和57年、遊喜幼稚園の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘の裾部と周濠が発見されました。また、公園整備に伴う調査で後円部の裾部も残っていることがわかりました。これらの調査の結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が葺かれていたことがわかりました。
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東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡・車輪石・剣・玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これらの遺物は、現在、東京国立博物館に保管されています。 この古墳の造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。
※公園の隣にある遊喜幼稚園が前方後円墳の前方部にあたるそうです。ちなみに公園が後円部だそうです。
★★高橋連蟲麻呂
菟原処女(うなひをとめ)が墓を見てよめる歌一首、また短歌
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巻9-1809 
葦屋(あしのや)の 菟原処女の 八年子(やとせこ)の 片生ひの時よ
小放(をはなり)に 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず
虚木綿(うつゆふ)の 籠りて座(ま)せば 見てしかと 鬱(いふ)せむ時の
垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の
臥屋(ふせや)焚き すすし競ひ 相よばひ しける時に
焼太刀(やきたち)の 手(た)かみ押しねり 白真弓 靫(ゆき)取り負ひて
水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競(きほ)へる時に
我妹子が 母に語らく 倭文手纏(しづたまき) 賤しき吾(あ)が故
ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや
宍薬(ししくしろ) 黄泉に待たむと 隠沼の 下延(したば)へ置きて
打ち嘆き 妹がゆければ 茅渟壮士 その夜夢に見
取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い
天仰ぎ 叫びおらび 地(つち)に伏し 牙(き)噛み猛(たけ)びて
如(もころ)男に 負けてはあらじと 懸佩(かきはき)の 小太刀取り佩き
ところつら 尋ね行ければ 親族(やがら)どち い行き集ひ
永き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと
処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方(このも)彼方(かのも)に
造り置ける ゆゑよし聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭泣(ねな)きつるかも

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反し歌
巻9-1810 
葦屋の菟原処女の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
巻9-1811 
墓の上の木枝(このえ)靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも    
by barakan1 | 2007-08-11 12:41 | 旅日記
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