■川原寺跡(弘福寺) 高市郡明日香村川原 左奥の山、板葺神社
斉明天皇の川原宮を寺にしたもので、天武朝~奈良時代には飛鳥屈指の大寺として隆盛を誇り、朝廷にも重んじられる官寺であった。
発掘調査によって一塔二金堂を回廊で囲み、背後にコの字形の大きな僧坊をめぐらせた壮麗な寺であったことがわかっている。現在は金堂跡、塔跡などの遺構が分かるよう整備され、かつての中金堂跡に現在の弘福寺が建っている。
■橘寺(たちばなでら) 太子殿修理中です 手前、川原寺跡礎石
橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物をとりにいった田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。太子建立七大寺の1つで、太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたものとされる。発掘調査の結果、当初の建物は、四天王寺式伽藍配置の壮大なものだったことがわかっている。
本尊は、国重文の「木像聖徳太子坐像」で、三十五歳像とも呼ばれ、お顔がふっくらして、堂々たる体格の小像で、室町時代の作です。
橘寺は聖徳太子生誕の地といわれています。
■天武天皇」と女帝「持統天皇」の御陵
第40代天武天皇と第41代持統天皇、夫妻の御陵で、檜隈大内陵(ひのくまおおうちノみささぎ)です。687年(持統元年)築造し、翌年天武天皇を葬り、703年(大宝3年)天皇として初めて火葬の女帝持統天皇を合葬されています。
天武天皇は、父が第34代舒明(じょめい)天皇、母が第35代皇極(重祚して第37代斉明)天皇、名を大海(おおあま)と云い、兄が第38代天智天皇(中大兄皇子)で、額田王との間に十市皇女(とおちノひめみこ)がいましたが、皇后の?野讃良皇女(うののさららノひめみこ、女帝持統天皇)は兄の天智天皇の第二皇女で姪(めい)です。ー奈良観光より抜粋ー