生駒山南麓(柏原)古墳・古社寺探訪(06.02.22)⑦国分神社~松岳山古墳・・・終

■国分神社 
●松岳山・神社社叢
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当社は字美山にあり、その創建は詳らかではないが、古書、口伝等によれば鎌倉時代の建立によるとある。
●鳥居・参道石段
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創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼すなわち有職、接待、技術等かつて見たこともないものを伝え、その才の勲功があったと大仁後の正二位の官位を賜ったが舒明天皇の十三年(六四一年)に没した。二十七年後の天智天皇の七年(六六八年)妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳山の上に葬った。その墓は前方後円墳で史跡として当社が所有している。
●拝殿
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●本殿
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(昭和三十四年に京都大学の小林行雄氏が石棺の調査をされ、四世紀末の古い墓であることが判明した。)境内地は、そのような古い歴史をもち、その後の武家政治による変遷により、船氏の地位も消失して、ここに氏人達の信仰のあった大和桜井の三輪大明神の大国主命と少彦名命、更に飛鳥部の伴造飛鳥大神の三柱を当地に勧請された。
●摂社 杜本神社(もりもと)
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明治五年に村社に列し、同四十年字水谷の無格社杜本神社を合祀した。
以上   『平成祭礼データ』より
■松丘山古墳
国史跡 松岳山古墳(まつおかやまこふん)
国分神社がある丘陵上には小さい円墳や方墳が10基ほどありました。
その名かでもっとも高いところにある、ただ一つの前方後円墳が 松岳山古墳です。
生駒山南麓(柏原)古墳・古社寺探訪(06.02.22)⑦国分神社~松岳山古墳・・・終_a0016431_1713330.jpg古墳は長さ約130m、後円部の直径72m、高さ16m、前方部の 幅32m、高さ6mの大きさがあります。さらに周囲には板状の 石を斜めに積んだ部分がみられ、これを加えると古墳の全長は 約155mになります。
後円部の頂上には、蓋と底に各1枚、側面に4枚の計6枚の石を 組み合わせた大きな石棺があります。蓋石と底石には堅い花崗岩を、 側面の石には柔らかい凝灰岩を使っています。石棺の中をよくみると、 頭や体の部分にあわせて底石を浅く彫り込んでいるのがわかります。

●松岳山古墳入口・頂上への道
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石棺の周りには板状の石が多く落ちています。もともとはこれらの 安山岩を積んで、石棺を納める竪穴式石室がつくられていました。
●頂上・石棺
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しかしいつの頃か盗掘の時に壊されたようです。 また、石棺の南北に、 穴のあいた大きな石が立っています。石室の一部のようですが、 これにはどのような役割があったのでしょう。
発掘調査により、石室からは勾玉、管玉、ガラス小玉などの装身具や 銅製の鑵などの副葬品が多くみつかりました。中でも総重量50kgにも およぶ鉄製の武器や農工具類が注目されます。また、 古墳の周囲には円筒埴輪や巨大な楕円形の埴輪が立てられていた
こともわかりました。
●石棺
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石棺の形や出土品などから、松岳山古墳は古墳時代前期の後半頃、 つまり今から1600年くらい前に造られたと考えられます。 1997年3月 柏原市教育委員会の案内板より抜粋
※4世紀頃の前方後円墳で「船氏王後首(ふなしおうごのおびと)」の墓誌がここで発見されたと伝えられている。
生駒山南麓(柏原)古墳・古社寺探訪(06.02.22)⑦国分神社~松岳山古墳・・・終_a0016431_17242927.jpg●船氏王後首の墓誌
「船氏の故王後首は船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ(572~585)、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自と同墓にして松岡山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為すものである。」
これは、大阪府柏原市国分の松岡山古墳付近から発見された船氏の墓誌銘で、王後首本人は既に亡くなっていますが、おそらく、その子息が記させたものでしょうから、同時代の身内のことを語っており、記、紀などより遥かに信頼できる史料です。王智仁はワチニと読むようで、王辰爾(ワシニ)に転訛しそうです。経歴を並べると、船氏王後首の祖父、王智仁と、「紀」の船連の祖、王辰爾は、ぴったりと年代を重ねることが出来ます。船氏は王智仁(王辰爾)首、那沛故首、王後首と続いたのです。    [弥生の興亡 帰化人の真実、 塚田敬章]より
■帰路国豊橋より東を見る
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※この2・3日風邪を引いてしまい、若干なりとも感想を書きたいと思いましたが纏まりません。又訪れる機会もあるでしょうからその時に・・。
by barakan1 | 2006-03-03 17:32 | 旅日記
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