隠口「泊瀬谷」の古社寺探訪(05.12.07)②馬井手橋~欽明天皇磯城島金刺宮・・・

■馬井手橋  都の外港「仏教伝来の地」
大和川に架かる「馬井手橋」の辺りは、その昔、第10代崇神天皇磯城瑞籬宮や、磯城嶋金刺宮を初め最古の交易の市「海柘榴市」などの史跡を残し、「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地で、難波津から大和川を溯って来た舟運の終着地で、諸外国の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしました。
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日本書紀によると、欽明天皇の13年冬10月百済の聖明王が西部姫氏達率怒喇斯致契等を遣わし、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を贈って仏教を伝え、その時上陸したのがこの辺りで、「佛教傳来之地」と彫られた大きな御影石の記念碑が「馬井手橋」の北詰左のたもとの所に建っています。ー奈良観光より抜粋ー
●馬井手橋より泊瀬谷をみる(左泊瀬川&三輪山)
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万葉集巻10-2222 
夕さらばかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音(と)を聞かくしよしも
■欽明天皇磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)(推定地)
初瀬川と粟原川に挟まれた地域は、かって磯城嶋と呼ばれ、古くは室町時代に法隆寺僧訓海が著した「太子伝玉林抄」、元文元年(1763)の並河承らによる「大和志」、大正3年の大神神社宮司斎藤美澄による「大和志料」により、この地域に金刺宮があったものと推定されている。
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「太子伝玉林抄」によると、室町時代には金刺宮の内裏跡は、現在地より東北約100mにある字垣ノ内一帯にあったとの伝承が、既に存在していたようだ。(案内板より)
万葉集巻13-3254 
磯城島の大和の国は言霊(ことたま)のさ(きは)ふ国ぞ真福(まさき)くありこそ
※以前は市の水道局に宮跡碑が建っていたが、現在は磯城宮公園(造成中)に移転されています。(水道局より2・300メーター東寄り)
by barakan1 | 2005-12-08 11:43 | 旅日記
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