吉野町(国栖他)~川上村(不動窟他)探訪(05.11.09)⑦金剛寺・南帝自天皇陵・・・

a0016431_12582971.jpg■金剛寺
不動窟より169号線を吉野方面に戻り、大平橋を渡り、すぐT字路を右に道なりに進むと金剛寺という案内板が現れます。その先を少し下ると、高野山真言宗、妹背山「金剛寺」があります。本尊の「地蔵菩薩」は、役行者が造って大峯山からここまで投げたと伝えられる「投げ地蔵」です。
●金剛寺「ケヤキ」
お寺が造られた頃と前後して、自生した物と思われる大きな「ケヤキ」の巨樹が、境内へ上がる石段の脇に植わっています。推定樹齢800年、幹周り6.5m、幹高約30m。1457年(長禄元年)12月2日夜、自天王は、ここで襲われ、あえない最後を遂げたけど、村の者が必死になって後を追い、寺尾の集落で、弓の名人大西助五郎が敵将中村貞友を仕留めて、王の首と神璽(しんじ)を取り返し、今でも王の命日12月2日、当事の郷士らの子孫によって御朝拝式が行われます。ー奈良観光より抜粋ー
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■金剛寺(本堂)  
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●南北朝とは
今からおよそ650年のその昔、後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府(北条氏)の政治をきらい、これを打ち破りました。ところが、この時天皇を助けた足利尊氏が力をたくわえ、遂には天皇に反したため、天皇は吉野山に朝廷を移して政治を執りました。一方、足利幕府は別の天皇(北朝)をたてたため激しい争いとなり、世にいう南北朝時代の幕開けとなったのです。
その後、南朝の後亀山天皇の時代に話し合いが進み、ようやく南北朝が交代で天皇をたて京都で政治をとる約束ができました。この時、天皇系の象徴である三種の神器も北朝側に渡しました。ところが足利氏が約束を守らず政治は幕府の思いのままに動いていきました。
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こうした北朝側に対し、後亀山天皇の皇子・小倉宮は京都をはなれ、奥吉野・川上郷に住いを定められました。そして、南朝回復の願いは、その子天基親王と円満院宮らに引きつがれ、ついに京都へ攻め入り大きな犠牲をはらいながらも神璽を取りもどしました。
一方、さきに川上郷にうつっていた万寿寺宮(尊義王)は円満院宮から神璽をうけ、自天皇(尊秀王)と忠義王(河野宮)の二皇子をともない三之公に御所をかまえられました。
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その後、父・尊義王がなくなり、自天皇は上北山村に、弟の忠義王は神之谷にわかれ住み、南朝方忠臣や郷民に守られながら再起の機会をうかがっていました。ところが長禄元年12月2日(1457年)の夜、赤松家一家の謀略にあい、両方の御所がおそわれ、自天皇はあえない最後をとげられました。この時、まさに18歳の若さでありました。郷民は、深い悲しみにおおわれながらも王の御首をとりもどし、金剛寺の境域にほうむりました。
●自天親王神社
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一方弟宮・忠義王は高原までにげのび、ここで病気でなくなられたといい伝えられています。今も郷民の追慕かわらず、毎年2月5日朝拝式が行われ、500有余年の昔をしのんでいます。ー川上村「後南朝と川上村」ーより

■南帝自天皇陵
「金剛寺」は、後南朝菩提所としても知られており、「本堂」に向かって左の急な石段を上がった所に後亀山天皇玄孫の「南帝自天皇陵」があります。
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※南帝自天皇陵と河野宮墓
自天皇は上北山村(川上村の南)にある龍泉寺を行宮(あんぐう)とされていらっしゃり、長禄の変の際には、そこで襲撃されてしまわれました。自天皇の御首級は北朝の襲撃隊の手に渡りましたが、川上郷士はそれを奪回し、川上村金剛寺に埋葬しました。
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本堂の裏手には自天親王神社があります。また、本堂前には小松宮彰仁親王題額の「自天王碑」が1882(明治15)年に建てられています。一方、宮内庁は金剛寺境内にある御墓を自天皇の弟宮である「河野宮墓」として管轄しています。川上村の史料によれば、河野宮は川上村高原に祭られているということです。なぜこのような違いが生じてしまったのでしょうか。
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1993(平成5)年2月5日には例年のように朝拝式が執り行われましが、このとき「後亀山天皇玄孫 南帝自天皇陵」と刻まれた石碑の除幕式が行われました。宮内庁の「河野宮墓」という標識の前に、「自天皇陵」と刻まれた石碑が建つことになったのです。川上村筋目の方々の気持ちを表した石碑となっています。
ー『歴史と旅』 1994年1月号ー秋田書店
※自天王が殺されたのは北山村龍泉寺であるという文と、金剛寺であるというのがあり、混乱していますが、葬られたのはここ金剛寺にまちがいないようですね。それにしても、陵に石塔が2基あるというのはどういうことでしょう?・・・。自天王と忠義王という意味でしょうか!?。
このあたりにはマダマダ南朝にかかわる知られざる旧跡があるようです!!
by barakan1 | 2005-11-16 13:40 | 旅日記
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