吉野山探訪(05.09.01)⑤東南院~吉水神社・・・

■金峯山修験本宗・大峯山「東南院」
大峯山寺を護持する5護持院の1つ。役行者の開基で、伽藍建立の際、巽(東南)の方角に一宇を設け、一山の興隆と安穏を祈念する寺院です。入唐僧日円上人を始め、累代高徳の僧を世に送り出し、木曾御嶽山の覚明行者もここで修験の奥義を極めた後、御嶽山を中興開山された云われています。
●東南院                           ●多宝塔
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境内の北側に立派な「多宝塔」があり、塔内に藤原時代中期の作で、県の文化財指定、木造の「大日如来坐像」が安置されています。なお、多宝塔は、江戸時代に和歌山県海南市の「野上八幡」にあったものを、その後「東南院」へ移転したものです。
ー奈良観光より抜粋ー

吉野山探訪(05.09.01)⑤東南院~吉水神社・・・_a0016431_13404053.jpg◆吉水院
今、NHKで、義経を放送していますが、
番組がもう少し進むと有名な義経の吉野山への、
逃避行の場面があると思います。その舞台の一つである、
吉水院を訪ねました。
奥千本へ続く道を左へ少し下るとそこが吉水神社(吉水院です)。
唯一と言っていいほど戦火に遭わなかったそうで、その趣は昔のままです。
また、遺物も沢山残っていました。


■吉水(よしみず)神社
吉水神社は元は「吉水院」と云い、役行者が天武天皇の白鳳年間に創建した金峯山寺の塔頭の1つで、1185年(文治元年)源義経が兄頼朝の追害を逃れ愛妾静御前、弁慶らと共にここに身を潜めて、後世にその悲恋物語を伝え、また、1336年(延元元年)後醍醐天皇が京都の花山院を抜け出し、吉水院宗信の援護により南朝の行宮とし、血涙の歴史を記したのもここです。
●吉水神社鳥居                   ●山門
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1594年(文禄3年)太閤秀吉がここを本陣として大花見の盛宴を催しました。
豊臣秀吉
年月を心にかけし吉野山花の盛りを今日見つるかな
●吉水(よしみず)神社の「本殿」
吉水神社の祭神は、後醍醐天皇、楠正成、吉水院宗信法印で、写真の本殿に向かって右から合祀されています。なお、境内には義経縁(ゆかり)の「駒つなぎの松跡」「馬蹄跡」「弁慶力釘」等が在り、また、本殿の右側に建っている国重文の建物は、日本最古の「書院」で、院内の「義経静御前の間」は室町時代初期、
「後醍醐天皇玉座」の間は桃山時代の様式で造られています。
●書院(南朝皇居跡)                ●本殿                       
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後醍醐天皇御製
花にねてよしや吉野の吉水の枕の下に石走る音
●源義経の「色々威腹巻」&後醍醐天皇「御座所」
義経は平家を壇ノ浦で追討した後、兄頼朝に疎んじられ、1185年(文治元年)11月6日摂津国大物浦から船出し西国へ脱出したけど、暴風に遭い、主従四散し、武蔵坊弁慶、佐藤忠信、愛妾で白拍子の静御前らと、同年11月17日吉野山に落ち延び、吉水院に隠まわれたが、鎌倉の追及は厳しく、5日間の滞在で吉水院を後にして、吹雪の中を吉野の奥へ分け入りました。しかし、吉野山の奧は女人禁制で、静御前は泣く泣く義経と別れ、山下して捕まり、一方義経は、奧千本の蹴抜塔(けぬけとう)に隠れ、一夜を過ごした時、追っ手の襲撃を受け、佐藤忠信が獅子尾坂の花矢倉で防戦し、吉野一の悪僧横川覚範を倒して活路を開いて呉れたので、弁慶と共に奥州へ落ち延びました。ー奈良観光より抜粋ー
●色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)    ●御座所
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靜御前
吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき
●義経馬蹄跡&弁慶力釘
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●みわたしの いとよき所 (一目千本)
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後醍醐天皇御製
ここにても雲居の桜咲きにけりただかりそめの宿と思ふに

by barakan1 | 2005-09-05 14:54
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