生駒山麓生駒谷の古墳・古社寺探訪(05.06.27)③(伝承)有間皇子の墓・・・

●近鉄線より御所の藪方向(東)を見る   ●同所より生駒山方向(西)を見る
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■(伝承)有間皇子の墓
御所の藪と呼ばれている竹藪の中にあります。
『日本書紀』によると、斉明天皇4年に蘇我赤兄にそそのかされた有間皇子が捕らえられたのは、「市経(いちぶ)の家」でした。それが現生駒市の一分(壱分)だと言われています。この一分という場所は、難波から奈良へと通じる暗峠(くらがりとうげ)を超えてすぐの所です。
●御所の藪の墓近くの畑より(西)生駒山方向を見る
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★御所の藪近くの畑(写真あり)から生駒山を眺めると今は家がギッシリと詰まっていますが、その昔は生駒丘陵のなだらかな岡が続きこの谷全体を見渡せたのでしょうね。そして山を越えた向うに住む父・孝徳天皇の難波宮のことを思ったり、また平群谷を越えて、明日香の都へも通っていたのでしょう。何処をどう通ってのか分かりませんがその人がかつて住んで居た所と考えると、古の人ですが、懐かしく身近に感じます。
●(伝承)有間皇子の墓
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竹薮の中にヒッソリと崩れ落ち散らばった五輪の塔は、人の世のはかなさ、虚しさを象徴しているようです。(あまりのさびしさに、金縛りにあう人もいるそうですから・・心をシッカリもって訪ねてください)
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古の人達が有間皇子の悲劇に同情し、住んで居た場所に五輪塔を建て、ヒッソリとお祀りしてきたのではないでしょか。そう考えると、ますますロマンが膨らみます。
このお墓はかなり分かりづらいですが、私も散々迷って辿り着きました。称名寺・無量寺の脇を東(竹薮もしくは山の方)へ細い道を進むとあります。背の低い、小さなものですからあまり目立ちません。

■■ 有馬皇子  (古代日本・白鳳時代に生きた悲劇の皇子)
『日本書紀』では、孝徳天皇の死後、皇位継承権を持つ有馬皇子は中大兄皇子ににらまれない為、気が狂ったふりをしていましたが、蘇我赤兄にそそのかされ、謀反を計画。その蘇我赤兄に裏切られ有馬皇子は謀反の罪で捕まってしまったのです(中大兄皇子と蘇我赤兄によって仕組まれた謀反といわれていますが・・)若干19歳の少年です。上手く蘇我赤兄に騙されたんでしょね!! その時に万葉集に有名な歌を残しています。

有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む(巻2-141)
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻2-142)

【鑑賞】万葉集巻二、「挽歌」の部立の頭に置かれている。一首目、「松が枝を引き結び」とは、松の枝と枝を紐などで結びつけることで、旅の安全や命の無事を祈るまじないである。二首目の「飯を…椎の葉に盛る」もまた、神へのお供えをして息災を祈ったものであろう。この直後に訪れる運命を知ればこそ、神の前に跪き、ささやかにして重大な旅の所作をなす皇子の姿は悲痛を誘う。この「結び松」は後世に伝わり、長意吉麻呂・山上憶良たちによって歌い継がれた。ー千人万首よりー
  
★中大兄皇子の尋問に、「天と赤兄ぞ知る。われ もはら知らず」と答え、藤白坂で絞首されるという悲劇の皇子です。この藤代坂にも有間皇子の墓があるそうです。こちらのはチャントした陵墓になっているようです。国道42号線の藤白坂は釣行で何回も通っているのに一度も訪ねたことはありません。いつか、きっと訪ねたく思います。
by barakan1 | 2005-06-29 11:00 | 旅日記
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