奈良佐保路の古墳・古社寺探訪⑬法華寺・・・

●法華寺南門                 ●本堂
●鐘楼                    ●横笛堂
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■法華寺
「法華滅罪之寺」「氷室御所」とも呼ばれ、747年(天平19年)頃、光明皇后が父の藤原不比等の旧宅を改築し、夫の聖武天皇らの菩提を弔うために創建され、以後、平安時代にかけて造法華寺司によって、東西両塔、金堂、講堂、食堂、鐘楼、南門、東門、中門等も造られ、大伽藍が整い、やがて諸国の国分尼寺を統括する総国分尼寺になり、入寺を希望する尼が後を絶たず、平安末期は、入寺に勅許が必要でした。しかし、1180年(治承4年)12月平重衡による奈良責めの兵火で、ここも被害を被り、中世以降はしだいに衰微して、現在に至っています。

■本堂の須弥壇上に安置されている本尊は、光明皇后をモデルにインドの仏師が彫ったと言う国宝の「木造十一面観音立像」で、高さ約1m、白檀(びゃくだん)一木造で、放射する蓮の花と葉の柄で作られた光背を背に、魅力的で、和辻哲郎も「古寺巡礼」で讃えています。

■横笛堂
法華寺の東門を入って右へ曲がったら、建礼門院の雑仕(ぞうし)の横笛が身を潜めていた「横笛堂」が建っています。横笛は、東大寺の大仏殿や、興福寺を焼き討ちにした平重衡(たいらのしげひら)の家来・斎藤滝口時頼との恋に破れ、ここで剃髪(ていはつ)をして尼になりましたが、本堂には、かって時頼から横笛に送られた手紙を使って張り合わせた横笛の紙子の像が安置されています。なお、時頼とは、彼が滝口の侍として宮中に出仕した時、横笛が恋に落ちましたが、彼の父の反対で仲を引き裂かれて後、1181年(養和元年)11月20日に18歳で出家した彼は、「滝口入道」と名を変えて「法輪寺」へ入りました。
                    -インターネット奈良観光よりー

★今回は有名な「から風呂」はみませんでした。
【法華寺本願光明皇后が難病者のために入浴の恵を与えられた浴室で、屋外で湯を沸かして、蒸気を室内に取り入れる様にしていました。ある時、皇后が、患者1000人の垢(あか)を流すべく誓いを立て、一生懸命汗を流していましたら、1000人目は膿(うみ)を垂らした老人で、それを吸って呉れと云いました。そこで皇后が嫌がりもせず、膿を正に吸おうとしたら、病気の老人は仏になって光明を放ったと云うことです】

庭園が色ずく時分にもう一度来て、見たいと思います。
(庭園の中に風呂はあります)
来訪の数日前にテレビでこの「から風呂」のことを放映していましたので、案内の人にあれ以後お客さんは増えたでしょう?と聞いたら、それほどでもないと・・・。やはりまだ寒いせいかな?
by barakan1 | 2005-02-01 17:15 | 旅日記
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