高槻市付近探訪2(2011.10.21)⑦石川年足(いしかわのとしたり)墓・・・終

■石川年足(いしかわのとしたり)墓 高槻市月見町 持統二~天平宝字六(688-762)
奈良時代中頃、石川年足は藤原仲麻呂のもとで出世し、天平宝字4年(760)に御史大夫に任じられましたが、2年後、天平宝字6年(762年)9月1日に平城宮の邸宅で75歳の生涯を終えました。亡骸は、その年の12月1日に彼の出身地である摂津国嶋上郡白髪郷(現在の高槻市真上町)に葬られました。
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◆二十五日、新嘗会の肆宴(とよのあかり)に、詔を応(うけたま)はる歌六首
式部卿 石川年足朝臣
万葉集 巻19-4274
天(あめ)にはも五百(いほ)つ綱延(は)ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ

お墓は、江戸時代後期の文政3年(1820)に発見されました。発見のきっかけは、摂津国嶋上郡真上郷光徳村の荒神山の地主であり村の庄屋さんが正月に山の南斜面荒神松の辺りの土が崩れた夢を見たため、行ってみると荒神松の下側の土砂が数センチばかり窪んでいたので掘り起こしてみると、木炭で囲われた木箱(檜製櫃)があり、なかに埋葬された人物について記した金銅板製の「墓誌」と人骨が納めてあったと伝えられています。
 墓誌(国宝)は、長さ約30cm・幅約10cm・厚さ0.3cmの銅板で、表面に年足の系譜や官職などを刻んで周りを細かい唐草文様で飾り、表裏とも金メッキがほどこしてしてありました。
 この墓誌によって、埋葬された人物が石川年足であると特定され、また真上の地がかつて白髪郷と呼ばれていたことがわかりました。白髪から真上へと表記が変化したのは、後の光仁天皇(在位770~781)の頃であったといいます。
ー高槻市発「大王のくに」からー
by barakan1 | 2011-11-11 12:58 | 旅日記
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