枚方市(御殿山神社~渚の院跡)探訪③渚の院跡・・・終

渚の院跡   枚方市渚元町
●西雲寺より渚の院跡 方向を見る
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都に近く、起伏に富んだ交野台地や香里丘陵、天の川・淀川左岸の低湿地一帯は古代から「交野ヶ原」と称され、鳥や獣が多く棲む絶好の狩猟地として著名な地域でした。
奈良時代末から平安時代初期には、光仁・桓武両天皇はたびたび交野ヶ原に行幸し、渡来系貴族の百済王らの奏でる楽を楽しまれました。風光明媚なこの地を訪れた天皇や貴族は、桜の花を愛で、歌を詠まれ、多くの優れた文学作品を残しています。
●院跡より、御殿山をみる                ●渚の院跡
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渚院
なかでも惟喬親王と在原業平の交遊の場となった「渚院」は古今和歌集や伊勢物語にかかれて都の貴族のあこがれの地となっていました。
●院跡碑・掲示板
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文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王(847~97)は第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇)との立太子争いに敗れ、失意の中で山崎の水無瀬や交野の渚に別荘を営み在原業平や紀有常らとともに遊猟や作歌・饗宴に憂さを晴らしたといわれています。
●「伊勢物語」(八十二段)には
親王が業平らを伴って水無瀬から渚院にやってきて、鷹狩りもせずに酒を飲み和歌を作ることに熱中している様子を描いています。
●歌碑
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渚院に咲いている桜が、格別におもむき深いので、その木の下で枝を折って冠にかざして身分の上下を問わず和歌を作りました。
在原業平、
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
と詠み
紀有常
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久かるべき
と受けました。
●交野ヶ原の桜
「伊勢物語」の渚院での桜を巡る歌と物語は「古今和歌集」に収載され、交野ヶ原、渚院、桜花は一体のものとして平安貴族の脳裏に焼き付きました。
●渚の院(御殿山神社絵馬              ●渚の院(河内名所会図)
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更に「新古今和歌集」には藤原俊成の名歌、
またやみむ交野のみ野のさくらがり 花の雪散る春のあけぼの
と見事な落花の歌を詠んでいます。
  ーふるさと枚方発見ーより
●廃渚院観音寺鐘楼・梵鐘(渚元町9-23)
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平安時代に惟喬親王の別荘であった渚院の跡に建てられたとされる観音寺は、明治3年廃寺となりましたが、鐘楼と梵鐘が残っています。鐘楼は方1間吹き放ちで、棟木に残る棟札から寛政8年(1796)に建立されたことが知られます。梵鐘は河内惣官鋳物師枚方田中家の作で、鐘楼と同じく寛政8年の鋳造です。田中家鋳造の梵鐘としては、市内に残る唯一のものです。平成8年有形文化財に指定。

枚方市(御殿山神社~渚の院跡)探訪③渚の院跡・・・終_a0016431_143573.gif※※惟喬親王(844~897文徳天皇の皇子 惟仁親王と皇位継承争いに巻き込まれて 一度は天皇になれるところまできていたのだけれど 藤原氏の権勢の前であえなくポシャってしまう)が 失意の中で 枚片野(現在の枚方・交野)に在原業平(右馬頭)たちと遊んだ時 別荘に使ったというのが渚の院(渚院)といわれています
by barakan1 | 2010-06-18 14:43 | 旅日記
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