叡福寺由緒・・・

叡福寺由緒・・・_a0016431_18324252.jpg
●西方院より、叡福寺を眺める。
観光寺ではないので、清澄な雰囲気があります。
私が訪れた時も、数えるほどしか人には会いませんでした。

■聖徳太子がこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620年)に墓所を造営したといわれている。翌年、太子の生母間人(はしひと)皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳手(かしわで)姫とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られたとされている。結果、廟は三骨一廟の陵墓になった。
 太子の没後、聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元年(724年)に建てられたのがこの叡福寺であるという。

■門前の東西の道は、奈良の都と大阪を結ぶ竹之内街道であり、その道を挟
む向かいには、聖徳太子に仕えた三人の侍女の御廟所である西方院があ
ります。
 三人の侍女とは、蘇我馬子の娘・小野妹子の娘・物部守屋の娘であり、剃髪
され善信・禅蔵・恵善と名乗り三尼公になられました。それにしても凄い面々
の娘さん達であります。
地名は、大阪府南河内郡太子町であり、悠久のロマンを感じる名刹です。
                            インターネットより
by barakan1 | 2004-09-12 18:43 | 旅日記
<< 竹之内街道のアザミ・・・ 南河内王陵の谷のヒガンバナ・・・ >>